おとなのせかいは〜

 いや、一応私今年から社会人やってるわけですが。やっぱり大人の世界の「ルール」というのはあるわけですね。なじめてませんが。というより、クビになりそうなんですが。それに「ルール」が関係しているかは微妙なところですが。会社自体の景気はいいんですけどね。
 同僚も今月いっぱいでクビになっちゃいました。
 でも、労働、とかいうのは、あんまり根を詰めて考えたくない話題です。
 

子どもが叩かれる、ような欲望の記憶

 「子どもが叩かれる」というのは、フロイトの論文のタイトルだが、そのなかでフロイトは「子どもが叩かれる」という空想によって性的興奮を得る人々を取り上げ、分析を加えている。
 この論文の存在は蒼龍さんのブログで知り、やおい・BLを理解するための文献として興味深いと思っていた。
 そのあと、今日になってid:kuronekobousyuさんが主宰するweb評論誌の「コーラ」のバックナンバーの記事を眺めていたら、24年組世代の女性まんが家がヒーローが痛めつけられたり拷問されたりする描写に性的興奮を感じていたと記されているのを発見し、あらためてこれが他人事ではないことを認識した。というのも、私自身、特撮やアニメのヒーローが苦しめられる様に、性的興奮を感じていたからである。そのような感覚を、私は今でも持っている。もっとも最近の例としては、コードギアスルルーシュがスザクにやられるシーンが私にそのような感覚を呼び起こした。「コーラ」の記述では、男の子たちはヒーローの強さにばかり目がいってしまい、そのような欲望に気づかなかった、という証言を参照しているが、私のような男性も、単にカミングアウトしないだけで相当数いるのではないだろうか。

昔の話に追加しておくならば、正確には公共的でないことが問題なのではなく、公共的でないことよって他者を食いつぶすふるまいが非倫理的で問題だということだ。
それゆえ、そもそも最初から倫理的問題と事実確認の問題を分けることなど事実として不可能だった。そこには「純粋な事実確認」など存在していなかったのだから。私はその二者択一の提示に惑わされたのだろう。後悔の多い記憶である。

桜庭一樹と成熟

赤×ピンク (ファミ通文庫)

赤×ピンク (ファミ通文庫)

 桜庭一樹の小説『赤×ピンク』は、3人の少女をそれぞれ主人公とした3つの連作短編である。いままで考察してきた『blue』、『晴れの日〜』と同様に、二人の少女の親密な関係の期間と別れ、という形態がそれぞれ一致している*1。作品タイトルの『赤×ピンク』とは作者あとがきによれば「女の子×女の子」という意味であり、これまでの考察で言えば「陽」と「陰」の関係、大きな同一性(同じ女の子)の中に異質性(赤とピンクで色違い)をはらんだ関係のヴァリエーションであるということができる。物語において主要な位置を占める空間は、学校の廃校舎を利用した女子ファイトクラブの会場であり、主人公である3人の少女はいずれもこの会員制ファイトクラブ『ガールズ・ブラッド』に所属し、ショーとしてガールズ・ファイトを提供している。*2
 では、それぞれの短編を一つずつ見ていくことにしよう。

File.1“まゆ十四歳”の死体

 本編は、高山真由21歳と山ノ辺美子19歳を中心的な登場人物として、その関係が描かれる。タイトルにある「まゆ十四歳」というのはファイトクラブにおける高山真由のキャラクター設定であるが、単なる設定ではなく、成熟の契機を失った状態に彼女がとどまっていることを暗示しており、「死体」というのはその成熟をとどめられた今までの自己を死んだものとして捨て去るという本編の結末を意味している。

通過儀礼にいたる個人史的経緯(母娘問題への言及を含むものとして)

 これまで分析してきた『blue』、『晴れの日〜』においては、それぞれの主人公が通過儀礼を発動する動機付けが希薄なところがあった。特に『晴れの日〜』では個人史的経緯をかなり微細な視点で考察することでようやく通過儀礼発動の根拠を考えることができた。*3だが、『赤×ピンク』においては図式的に過ぎるといってよいほど、彼女たちの成熟の困難さを構成する個人史的経緯すなわち通過儀礼発動の動機付けが非常に明確だという特徴がある。
 真由は幼少時から中学に入学するまで母親に虐待されていた。その虐待は赤ちゃん用のフェンスの囲いにずっと閉じ込めておくというものであった。赤ちゃん用フェンスにずっと閉じ込める、というのは、いかにも成熟の否定として象徴的である。*4真由は、そのようなかつての虐待における、成熟の否定という参照項に常に立ち戻り続けてしまうため、平凡な社会人生活を送ることができずにOLをやめてファイトクラブに行き着く。しかし成熟の否定といっても、真由はそこに立ち戻ってはしまうが、それを心底歓迎しているわけではない、むしろ、本当の理由は、過去を反復し、かつての過去を書き換える=自己物語を書き換えることで、望ましい、より安定した自己物語を得ることにある。真由が過去を反復していることは以下のような記述からうかがえる。

 ある日とつぜん、会社を辞めた。そこには檻がなかったから。(中略)
 ここに面接にきたとき、薄暗い廃校の中庭に、悪夢のようにうっすらと浮かび上がるこの檻をみつけた。
 ここにあったのかぁ、と思った。不思議な懐かしさと、喜びと、絶望が、津波のようにどこからか押し寄せてきた。

 そして、彼女が彼女の自己物語の具体的にどこを書き換えようとしていたのかは、以下の記述からうかがえる。

 父にとって、わたしを檻から出すことは、母への裏切りだった。
 多分。
 だから、わたしが檻の中から、ビールを飲んだり、夕刊を開いたり、テレビのリモコンを捜す父をじいっとみつめているあいだ、父は、一度も助けなかった。
 わたしを檻から出して、黙って頭を撫でてほしかった。
 誰かがわたしを愛してるってことを、そうされることで知りたかった。
 ずっとそう思ってた。
 だけど父はそうしなかった。家の中で、わたしが檻にいることは、"起こっていないこと″になっていたし、成人したいまではさらに"なかったこと"になっている。(中略)
 不思議なことに、わたしは母より、父に対して怒っている。母は病気だったと思う。心の。でも父はちがった。多分、父に助けてほしかった。でも誰も……わたしを助けない。

 ここで一つ踏まえておかなければならない点がある。桜庭が『SFマガジン』のインタビューを受けたとき*5、インタビュアーから桜庭の作品は父親が敵になっているという指摘をされ、それに対して桜庭は、母親にすると若年層にはつらいのではないかと思ったのだと述べている。だから、ある程度の時期まで、桜庭は母親と娘との葛藤を書くことをセーブしていたと推察される。
 真由の場合、明らかに直接的には母親との関係において問題が発生しているのだが、それを父親との問題にシフトさせているのが上記の引用から読み取れるだろう。


続く。

 
 

*1:ちなみに、直木賞受賞の頃まで、桜庭一樹作品のほとんどすべてが同じ形態を持っている。

*2:この会場は言うまでもなく、『blue』における学校、『晴れの日〜』における広場と同じ、通過儀礼遂行の場である移行空間としての独特な機能を果たしている。しかも元々「校舎」であったというのも象徴的である。学校がしばしば管理統制の装置として論じられがちなのに対して、大塚英志は成熟を猶予される聖域、避難所としての機能が学校に存在することを見抜いていた。そして本作の舞台は廃校であり、統制機能が完全に失われた場所としてその意味がより明確になっている。

*3:しかしさとこが小学6年生だという年齢を成熟の契機として捉えるという視点もありうる。ちょうど「卒業」を迎える年でもあるし、早ければ初潮という契機も考えられる。

*4:娘の成熟を否定する、というのは母娘問題として興味深い論点である。

*5:いつだったかはメモが残っているはずなので後で調べます。

つながる

 今日はユリイカの12月号と『密やかな教育』を買った。それで改めて気づいたのだが、BLと母娘問題はどうも同系列に属するテーマのようだ。どこをどうやったらつながるのかよく見えないのだが、しかし確かにつながっているという感触があって、そのうち分かったらいいなあと思う。
そんなことがバカな自分に直観でわかるわけないと思ってたら、やはり斎藤環さんの本に似たようなことが書いてあった。これで安心だ。

コードギアスと成熟――〈正しい〉貴種流離譚としての

 読書期間が終わったら書こうかと思う。
すいません。やっぱりコードギアスは難しいので前回の続きと言う形で別の方面から迂回することにします。
 大雑把なことを言えば、コードギアスはちゃんと全世界を征服するところまでいったし、主人公がちゃんと最後に死んだし、というところがちゃんとしてたなあということなんだけども。

他者の感覚と成熟

 さて、樹村みのりの『晴れの日・雨の日・曇りの日』を論じる過程で、二人の少女の間にあるずれが、『blue』や本作で見られるようなタイプの物語における通過儀礼の重要な要素であることに触れた。
 さとこは、足の不自由な少女である尚美との交流を続けるにつれて、「自分とは異なる存在」としての尚美を、段階的にその理解の仕方を変化させながら経験していく。
 最初に、さとこは、自分と違って早く走ることができない足の不自由な存在、という非コミュニケーション的あるいは外面的な事柄によって、尚美との差異を理解する。さとこは、尚美が足のことを気にしているのではないかと思って気遣う振る舞いをするが、しかし尚美はそのことを気にしてはいないように振る舞い、早く走る人を見るのが好きだとさえ言う。その尚美の言葉をさとこは素直に受け入れるのだが、これで事態は収束しない。
 ある雨の日に、広場に水がたまり、少し高くなっていて水から出ている場所を尚美は海の中の島みたいだと表現する。そして次のように吐露する。

時どき一人で無人島みたいなところへ行きたいって思うことあるわわたし

ふうん

だれもいないところへ行きたいわ/学校も家の人も呼びに来ないところ

 これに対して、さとこは、自分の感じていることと尚美の感じていることとの隔絶に悲しみを感じる。別の言い方をすれば、さとこは他者との隔絶を学んでいる。

だれもいないところへ行きたいなんて……
友達から聞くとなんてさみしくなる言葉なんでしょう

考えてみたこともありませんでした
わたしにとって尚美ちゃんといることは楽しいことなのに
尚美ちゃんにとってそうではないなんて……

 すでに述べたように、本作のようなタイプの物語において、片方の少女はもう片方の少女にとって鏡像であり、自己イメージの投影対象である。同じ小学校の同じ6年生で、同じ場所で同じ遊びをする、同じ時空を共有する者同士なのである。しかし、それが単なる同質性への志向ではないというところが通過儀礼としての重要なポイントとなる。ここにおける自己イメージの投影は、むしろ同質性の裂け目、ずれをその駆動力としている。引用した部分は、その裂け目の露呈となっている。しかし、ここではまだ、その裂け目を感じるだけにとどまっており、その裂け目を媒介に自己を組み替える段階までは進んでいない。通過儀礼の進行上、露呈した裂け目は新たな自己の枠組みへと回収されなければならないということである。*1
 そのような自己の組み換えへの経験のフィードバックがやがて行われることになる。さとこと尚美が他の子供たちの遊びに混ざったとき、尚美の足の遅いことで他の子供たちが嫌味を言う場面で、尚美はそれを聞いていたのだが、聞いていないふりをして、今度は自分抜きでやるように言う。それに対して他の子供たちはあわてて取り繕うようなことを言うのだが、さとこは気分を害して遊びから抜けてしまう。それに対して尚美はさとこちゃんはやめなくてもよかったと言う。
 さとこは、こうした尚美の振る舞いについて、自分よりもずっと大人だと感じ、しかしそれによって尚美の本当の気持ちが分からないと感じる。それでも、本人が気にしていないように振舞っているのだから、そうなのだろうという考えでいる。
 しかし、その後一緒に広場で遊んでいるときに、尚美が発した一言によって、本当は尚美が足のことを気にしていたのだということをさとこは察する。

ね さとこちゃん
わたしこの広場で走るのだったら
この間の子たちより早く走れると思うわ

平気じゃないんだ
平気だったんじゃないんだ
足のこと気にしていないんじゃなかったんだ
バカみたい
バカみたい わたし

 ここでさとこが自分のことをバカみたいと言っているのは、後で以下のような意味として独白される。

わからないことはたくさんたくさんあるのでした
そしてわたしはわかろうとしなかった自分に腹を立てていたのでした

 すでに述べたように、さとこは尚美との関係の中で、裂け目を感じてはいたのだが、それを掘り下げるということはなかった。しかし、尚美の言葉と実際の内面とのずれ、つまり、自分と相手とのずれ以上に、相手の内部に存在するずれを理解することで、さとこは単なる同質性の共有から大きな一歩を踏み出す。この時点で、移行対象という側面から見ると、尚美がその役割を終えつつあるということが指摘できるだろう。さとこにって、自分の鏡像である存在から、自分にはわからないこともある他者として尚美の存在は変化を遂げている。*2
 このように、さとこの通過儀礼は他者との同質性の中に出現する裂け目を通して、自分の認識枠組みを組み替えていくという過程である。つまり、他者についての認識の変化が一つの成熟として遂行されるのである。
 さて、まだ残された問題はある。それは移行対象を捨て去る、ということの理解である。移行対象の意味合いから言うなら、一人で現実に向かい合って行けるようになる、ということなのだが、しかしそれはどのようにして実現され、何をもたらすのか。機会を改めて考察することにしよう。

自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ

自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ

*1:浅野智彦は、『自己への物語論的接近――家族療法から社会学へ』の中で、精神療法のナラティブ・セラピーの内容を解説しているが、ナラティブ・セラピーの理論的立場の一つである脱構築的アプローチの解説において登場する「ユニークな結果」と呼ばれる概念は、ここで私が言うところの「裂け目」に近いのではないかと思われる。「ユニークな結果」とは、その人の自己を構成する自己物語の中で、物語全体の筋からはずれたような浮き上がった部分、整合性の取れない要素のことを言う。脱構築的アプローチによるセラピーはこのユニークな結果をてこにして、その人の自己物語を書き換えてよりよいものにすることで精神的な問題の解決を図ろうとする。私がここで論じている裂け目も、自分の既存の枠組み(=尚美ちゃんもわたしはいっしょにいて楽しいという自己物語)が書き換えを迫られるような要素として、「ユニークな結果」と同様の役割を果たしていると考えられる。また、これは浅野自身の用語で言えば、自己物語の内部に現われかつ隠蔽される要素としての「語り得ないもの」と同義であると考えられる。

*2:移行対象は捨て去るという点が重要であることは確かだ。しかし、その前提としてひとまずは一体化できなくてはならないのであり、だから同質性を一概に否定するのは間違いである。むしろそうした同質性こそが裂け目を導入し、さらなる発展を遂行するための足場となっているのではないだろうか。また、さとこの物語は「寛容」をめぐる話としてみることも可能であるが、そのような物語が普遍的な形態に基づいていることは、「寛容」がしばしば多様性を根拠にすえることとの対比として興味深い。