広田照幸『《愛国心》のゆくえ』教育基本法改正という問題

 頭の悪い僕にはちょっと難しすぎる問題なので、知恵をつけようと、直接教育基本法改正問題を扱った本を読んでみました。非常によくできた本なので僕のように頭の悪い人は議論の前にぜひ読むことをお勧めします。とくに教育基本法が準憲法的な性格を持っていることすら知らない人とか。で、調子に乗って要約も途中までですが書いてみました。皆さんの議論の参考になれば幸いです。

教育基本法見直し必要論・不要論それぞれの5つの分類(市川昭午の整理を広田照幸『《愛国心》のゆくえ』より引用、一部改変)

押し付け論
現行法はわが国が主権を制限されていた占領下でつくられたものであり、占領軍による検閲と統制がなされた結果、伝統の尊重、宗教的情操教育など、現行法に盛り込めなかったり、修正された文言がある。それゆえ、日本人の立場から自主的に見直すべきである。
●不要論の反論――教育基本法は日本側が自主的に策定したものである。立法過程に占領軍が介入したことは否定できないが、そのことが直ちに改正すべき理由とはならない。改正すべきか否かは、現行条文に問題があるかによって判断されなければならない。

② 規範欠落論
 近年、教育荒廃現象がひどくなったのは、かつての教育勅語にあったような、国民が遵守すべき徳目(たとえば、“公共”の精神、道徳心、自律心、規範意識、伝統や文化の尊重、郷土や国を愛する心など)が現行法に規定されていないからである。だから、そうした徳目や規範を盛り込む必要がある。
●不要論の反論――そうした主張はまったくのこじつけである。教育の「荒廃」現象が教育基本法に起因するという証拠はない。学力低下や規律の弛緩はわが国だけに得意な現象ではなく、先進諸国に共通している。また、学習指導要領にはその種の社会規範がすでに規定されており、それに基づいて学校教育が行われてきたにもかかわらず、教育「荒廃」が生じている。これからもわかるように、教育基本法の存在が教育「荒廃」の原因ではない。

③ 時代対応論

時代の進展や社会の変化に伴って、新しい教育課題が生じてきた。そうした新しい課題。に対応できるような内容に教育基本法を改正する必要がある。たとえば、生涯学習社会の実現、男女共同参画社会への寄与、障害者教育の支援、職業生活との関連の明確化、基本計画の策定、環境問題、国際化、情報化などに対応した教育などがそれである。市川によれば、改正を打ち出した中央教育審議会の答申も、基本的にこの立場を取っている。
● 不要論の反論――教育が社会変化に来往しなければならないというのはそのとおりだが、それは関係所法令の改正で対応でき、教育基本法の改正を不可欠とするものではない。それに、そうした政策課題については、既に関係の諸法律が制定されており、その中にそうした課題に関する学習や教育、人材の育成などの必要性が謳われている。

④ 原理的見直し論
 制定以来、既に半世紀以上の歳月を経た今日、新しい時代や社会や時代に照らして、現行法を基本原理から抜本的に見直す必要がある。
● 不要論の反論――現行法はその前文にも謳っているとおり、「日本国憲法の精神に則り」、その理想を実現そるために存在するものであり、現行法の原理・原則である個人主義・民主主義・平和主義は憲法の原理に従ったものである。それゆえ、基本原理から抜本的に見直すということになると、憲法の改正が不可避となる。現行憲法を前提とする限り、現行法を基本原理から抜本的に見直すことは不可能である。

⑤ 規定不備論
現行法は法文の表現が必ずしも適切でないために誤解されやすく、それによって教育界に不要な混乱を招いた部分がある。たとえば、第十条(教育行政)などはその典型である。したがって、そうした紛らわしい表現を改める必要がある。
● 不要論の反論――現行の規定こそ教育行政のあるべき姿を適切に規定したものであり、改定の必要はない。


広田照幸『《愛国心》のゆくえ』における議論の要約

1. 教育基本法改正議論が浮上した背景はなにか

 教育基本法改正議論が近年急速に浮上した背景の一つには、体制派のイデオロギーの変容ということがあげられる。1960年代から1970年代までの教育行政は国家統制と公教育の拡充という方向性に進んでいたが、1980年代からそれが変わり、新自由主義新保守主義が台頭してくるようになった。新自由主義は公教育をスリム化し、規制緩和・分権化を志向する。新保守主義は公教育のスリム化は同じだが、教育内容の国家統制を強化することを志向する。
新自由主義新保守主義は互いに原理的な矛盾を孕むイデオロギー同士である。新自由主義が自己選択・自己責任を重んじるのに対して新保守主義は共同体的な社会を志向するので個人の自由には抑圧的である。しかし新自由主義的政策によって孤立化した個人を、新保守主義的な共同体イデオロギーによって均質化することで社会不安を抑制するというふうに、新自由主義新保守主義は実際には相互補完的な関係を持つことになる。
新自由主義新保守主義的なイデオロギーが支配的になった場合には、貧富の格差の拡大、社会階層化・社会不安が進み、異質な他者を排除して社会的マイノリティへの差別を助長するなどの問題がある。しかし、世論が新自由主義新保守主義イデオロギーを認めた場合には、そうした問題の指摘は有効で説得的な反論とはなりにくい。
教育基本法改正問題は「戦後」の問題に限定されるものではなく、きわめて現代的な文脈から浮上した問題であり、これからの日本の国家のあり方の重大な選択、日本社会の仕組み全体にかかわる、「国のかたち」をめぐる問題である。新自由主義新保守主義的な改正案はそれに対していくつもある諸選択肢の中から出された、国の方向を示す一つの解答例である。だから改正賛成派も反対派もこれからの社会のあり方をどうするべきか、自分の選択は真に有益なものとなるか、という観点から改正問題を考えなくてはならない。既存の改正論者の典型的なレトリックはいくつかの論の飛躍があり、問題である。

教育基本法の改正論者の典型的なレトリックは、「教育の現状には問題がある。また、これからの日本は○○のようになるべきだ。だから教育基本法を××のように変える必要がある」というふうなものである。しかし、ここには、いくつかの論の飛躍がある。第一に、教育の現状に問題があるということと、だから教育基本法を変えなければならないという主張の間にある、論の飛躍である。第二に、教育の現状に問題があるということと、だから「××のように」変えねばならないということとの間の飛躍である。第三に、「これからの日本は○○のようになるべきだ」という像の妥当性や合意の問題である。第四に、仮に「これからの日本は○○のようになるべきだ」と認めてみた場合に、「教育基本法を××のように変える」のが果たして適切な方策かどうか、という問題である。》


広田の『《愛国心》のゆくえ』ではこれらのうち、「これからの日本は○○のようになるべきだ」という像が中心的な問いの一つであり、また「新保守主義」「新国家主義」「国家主義」の動きの問題が中心的に論じられる。

2. 教育の権力性について

 ある徳目がある人にとっては望ましく映る、ということと、それを教育によって教え(させ)ようとすることには距離があり、また何が望ましい徳目かを法律に書き込むこととも距離がある。
 教育とは「他者」と「他者」との間に成立する営みである。(これはもう少し突っ込んで言えば、安易に身内意識を持ったり、分かり合えたり理解しあえたり、相手を思い通りにさせるといったことがそう簡単にいくものではない、というよりまず不可能だということである。それぞれ「別の人間」である人間の間の営みだということである)。
 教育とは、被教育者(つまり児童や生徒)のなかに「よさ」を実現しようとする営みである。何かを教えようとすれば、知的なものであれ価値的なものであれ(つまり教科の授業であれ特別活動や生活指導であれ)、それは必然的に、なんらかの「よさ」(「良さ」も「善さ」も含む)と結びつくことになる。
 これらを合わせると、教育とは「他者」を「よく」しようとする営みである。言い換えれば教育とは「よさ」の「押し付け」である。児童や生徒が自分でなにが「よい」かを決める前にあらかじめ先生が「よい」ことを設定して「押し付ける」のである。
 そうした権力関係である教育をやめるようにいったり、権力をなくそうとするのは夢想であり、欺瞞である。公教育の存在とその権力性は受け入れざるを得ない。
教育の権力性はポジティヴな面も持っている。〈子供〉は本源的な未熟さをもっているので「よさ」を選択・判断する能力が十分ではない。発達にあった適度な「よさ」の押し付けは将来の多様な「よさ」の選択・判断能力をむしろ養うことができる。
その上で問題なのは、何かが「よい」ということと、その「よさ」を強制することとが別であることである。自分が望ましいと思うものを、そうは思わないかもしれない他者に押し付けることになるかもしれないということが認識されなければならない。
多くの場合、ある「よさ」の押し付けは他の「よさ」との比較の上で選択されたものであり、特定の「よさ」が重視されると他の「よさ」が軽視され、排除されてしまう。教育の場では「よさ」の押し付けは限度と制約が考えられなければならない。
いまだに世間の多くの人たちは教育の権力性に無自覚であり、権力性を自覚している教育思潮も大きな広がりは見られない。それは教育学の多くの分野でも同じである。
諏訪哲二・河上亮一ら「プロ教師の会」は権力性の自覚はしているが、80年代までの既存の社会の価値観をこえていくための教育実践の模索から、90年代に入って旧来の「国民形成」型の学校像・教育像に依拠するようになった。
「脱学校論」的な潮流はポストモダン論などのアカデミズムの中のブームで終わってしまい、そこでの議論が具体的な政策論の場に上がってこないために現在の教育・学校改革の議論は教育の力を過信したものになってしまっている。
 河上亮一等「プロ教師の会」が提唱する権威主義的学校論はいくつもある選択肢のうちの一つでしかないことを認識する必要がある。
 教育の内容、個人の内面にかかわることについては、法律の中に書き込むことは適切ではない。戦前の大日本帝国憲法制定時にすら倫理規範の法定問題があり、結局法律に倫理規範を書き込むことはできず、「勅語」という形式を用いることになったが、それにすら当時の法制局長官から疑問の声が上がっていた。
 教育基本法に「教育の目的」が書かれてあるのも戦後の特殊な文脈ゆえに掲げられたものであることも忘れてはならない。
 しかし教育目的の法定にはまったく正当性がないとは言い切れず、諸外国にも教育目的の法定は実例がある。教育には必然的に思想・価値観の形成に関与する面があるので、公教育そのものが常に「思想・良心の自由」とは緊張関係にあるといえる。
 ところが、これを日本独自の文脈に即して考えた場合にはその特殊性から、価値観・倫理規範の法制化は大きな危険性を持っていると考えられる。
 第一に、日本は、言語・宗教・生活文化が諸外国に比べてかなり均質であり、国家が特定の価値を教え込む場合には、特定の社会秩序への過剰な組み込みの危険性が大きい。在日外国人のような人たちは無視され、排除される社会になってしまうだろう。多様な民族を抱えている諸外国では「同一化」よりも「社会の解体」のほうが問題だが、日本はそれとは対照的である。
 第二に、日本の教育は中央からのコントロールが非常に強い。「日の丸・君が代」問題に見られるように、地方分権化も教育委員会による教育現場の統制を強める方向に作用している。同じ中央集権でも、フランスの場合はもっと現場の教師の自主性が尊重されている。
 第三に、法律に教育の目的を書き込むことは「正しい国民」を規定することにつながる。法律に書き込まれた「あるべき国民像」はそのまま大人社会の「道徳」までをも規定することになる。教育基本法には社会教育・生涯教育も含まれるので、大人も道徳教育の対象になる。
 もしも百歩譲って教育理念を法で定める場合には次の2点が保障されなければならない。
① 理念や目的は、抽象的で最小限度にとどめるべきである。これは大人社会の自由度の保障のためにも必要であり、時代や場面、対象に即した多様な教育を保障するためにも必要である。
② 理念や目的をそのままストレートに現場の実践にまで下ろしてはならない。被教育者の行為や態度まで問題にするような緊縛した仕組みは危険である。これは理念がどのようなものであれ危険である。理念の「内容」はこの際問題ではない。「教育基本法の改正問題において、他のさまざまな諸徳目以上に『国を愛する心』が特に問題にされるべき一つの理由は、それが、個々人の『同調―非同調』を可視化させる、さまざまな儀式・儀礼と結びつきやすいからである」

3.政治的境界線の変容から見る教育基本法改正の思想的文脈
 
教育基本法改正論が勢いを得てきた思想的文脈を、現代日本における〈政治の変容〉という視点から整理」する。

政治的境界線とともに変容する民主主義
教育基本法改正是非論がはらんでいるのは、国家と個人の関係をどうすべきなのか、という問題である。教育の世界で近年生じてきている問題は、社会関係の根本的な変化がその背景にある」。だから「教育基本法改正問題をはじめとしてこれからの教育の枠組みを考えるためには、個人と国家の関係、私的自由の尊重と公共性の関係、国民国家とそれを超えた秩序の可能性の問題など、政治の枠組みの考察を抜きにしてはありえないということになる」。
 
 近年の政治のあり方の変容を説明するための枠組みとして「政治的なるものⅠ」、「政治的なるものⅡ」という二つの位相を定義する。

「政治的なるものⅠ」――政治が見出されるアリーナ。
「政治的なるものⅡ」――集団を単位とした敵対性の契機をめぐるもの。①敵対性と、②集団を形成する境界線、という二つの要素からなる。

A「政治的なるものⅠ」の変容
「近代以降の政治秩序のもとでは、「国内/国際」という分化、「公的/私的」という分化にそって、政治のアリーナが作られてきた。つまり、区画が分かれた中で、政治的な部分が提示されていた。自由民主主義は「国内」問題の「公的」領域というアリーナで機能した原理だった」。しかし、政治の対象となるアリーナはもはやそのような明確な区画では分けられなくなった。むしろ、そうした自明と思われていた「国内/国際」、「公/私」の境界線を「問い直す」動きが活発になっている。私的なことだとされてきたことを政治的なアリーナで議論されるべきだとするような新しい認識・行動様式や、国内政治と国際政治の境界が明確でなくなってきているということなどがある。新たな政治的争点を立ち上げる集団の活動、すなわちサブ政治の動きも活発になっている。

B「政治的なるものⅡ」の変容
 旧来の敵対性の境界線は階級や宗教にあったが、現在ではそうした既存の政治的境界線は衰退している。それに代わって福祉国家批判や「新しい社会運動」などの新たな敵対性や集団を形作る境界線が登場してきた。つまり何が政治的な争点として浮上するのかをあらかじめ自明的に想定することができなくなったのである(昔は右翼とか左翼とか叫んでればよかった)。そうした「政治的なるものⅡ」を再編するダイナミズムは主権国家という政治共同体を動揺させている。旧来の固定的な政治的境界線が重要性を減じる中で、国家に関しては、一方では帰属意識の変容や離脱と、他方ではその再活性化(新保守とかのことだね)とが複雑に入り混じって進行している。

C「政治的なるものⅠ・Ⅱ」の変容の帰結
 政治的な領域が自明のものとして決定できなくなると、それは人々の自由に関して両義的に作用する。「人々の自由を広げる可能性をもつとともに、自由が抑圧される危険性ももっている」。
「つまり、抑圧されていた人たちの人権問題が政治的な課題として認識されるという風に、従来は私的なものとして扱われていた事象が公的な領域に上がることによって、隠れていた問題を議論――改善できるようになる部分もあるし、逆に、境界線が動くことによって、本来、問題にされなければならないものが『私的なもの』として扱われることも起きてくる(例として失業問題が挙げられる)、ということである」。
私から公になった例――DV
公から私になった例――失業問題
「政治的なるものⅠ」に関しては、一方で新たな政治的アリーナが作り出せる可能性が生じているが、他方で「私的」自由として政治から隔離されるべき領域が「政治的」イシューとされたり、「国際的」な解決が目指されるべき問題が「国内」の政治的イシューとされたりしてしまう危険性が生じている。
「政治的なるものⅡ」については、集団的な境界線が流動化する結果、既存のアイデンティティ集団から離れて、新たな集合的アイデンティティや新たな文化的コードを形成する「われわれからの自由」や「われわれへの自由」をもたらす可能性もあり、両者が緊張を孕む可能性もある。敵対性についても一方では消滅する可能性もあり(階級対立の衰退、等)、他方では、原理主義的・本質主義的な潮流によって昂進してしまう可能性(民族紛争、等)もある。