桜庭一樹と成熟

赤×ピンク (ファミ通文庫)

赤×ピンク (ファミ通文庫)

 桜庭一樹の小説『赤×ピンク』は、3人の少女をそれぞれ主人公とした3つの連作短編である。いままで考察してきた『blue』、『晴れの日〜』と同様に、二人の少女の親密な関係の期間と別れ、という形態がそれぞれ一致している*1。作品タイトルの『赤×ピンク』とは作者あとがきによれば「女の子×女の子」という意味であり、これまでの考察で言えば「陽」と「陰」の関係、大きな同一性(同じ女の子)の中に異質性(赤とピンクで色違い)をはらんだ関係のヴァリエーションであるということができる。物語において主要な位置を占める空間は、学校の廃校舎を利用した女子ファイトクラブの会場であり、主人公である3人の少女はいずれもこの会員制ファイトクラブ『ガールズ・ブラッド』に所属し、ショーとしてガールズ・ファイトを提供している。*2
 では、それぞれの短編を一つずつ見ていくことにしよう。

File.1“まゆ十四歳”の死体

 本編は、高山真由21歳と山ノ辺美子19歳を中心的な登場人物として、その関係が描かれる。タイトルにある「まゆ十四歳」というのはファイトクラブにおける高山真由のキャラクター設定であるが、単なる設定ではなく、成熟の契機を失った状態に彼女がとどまっていることを暗示しており、「死体」というのはその成熟をとどめられた今までの自己を死んだものとして捨て去るという本編の結末を意味している。

通過儀礼にいたる個人史的経緯(母娘問題への言及を含むものとして)

 これまで分析してきた『blue』、『晴れの日〜』においては、それぞれの主人公が通過儀礼を発動する動機付けが希薄なところがあった。特に『晴れの日〜』では個人史的経緯をかなり微細な視点で考察することでようやく通過儀礼発動の根拠を考えることができた。*3だが、『赤×ピンク』においては図式的に過ぎるといってよいほど、彼女たちの成熟の困難さを構成する個人史的経緯すなわち通過儀礼発動の動機付けが非常に明確だという特徴がある。
 真由は幼少時から中学に入学するまで母親に虐待されていた。その虐待は赤ちゃん用のフェンスの囲いにずっと閉じ込めておくというものであった。赤ちゃん用フェンスにずっと閉じ込める、というのは、いかにも成熟の否定として象徴的である。*4真由は、そのようなかつての虐待における、成熟の否定という参照項に常に立ち戻り続けてしまうため、平凡な社会人生活を送ることができずにOLをやめてファイトクラブに行き着く。しかし成熟の否定といっても、真由はそこに立ち戻ってはしまうが、それを心底歓迎しているわけではない、むしろ、本当の理由は、過去を反復し、かつての過去を書き換える=自己物語を書き換えることで、望ましい、より安定した自己物語を得ることにある。真由が過去を反復していることは以下のような記述からうかがえる。

 ある日とつぜん、会社を辞めた。そこには檻がなかったから。(中略)
 ここに面接にきたとき、薄暗い廃校の中庭に、悪夢のようにうっすらと浮かび上がるこの檻をみつけた。
 ここにあったのかぁ、と思った。不思議な懐かしさと、喜びと、絶望が、津波のようにどこからか押し寄せてきた。

 そして、彼女が彼女の自己物語の具体的にどこを書き換えようとしていたのかは、以下の記述からうかがえる。

 父にとって、わたしを檻から出すことは、母への裏切りだった。
 多分。
 だから、わたしが檻の中から、ビールを飲んだり、夕刊を開いたり、テレビのリモコンを捜す父をじいっとみつめているあいだ、父は、一度も助けなかった。
 わたしを檻から出して、黙って頭を撫でてほしかった。
 誰かがわたしを愛してるってことを、そうされることで知りたかった。
 ずっとそう思ってた。
 だけど父はそうしなかった。家の中で、わたしが檻にいることは、"起こっていないこと″になっていたし、成人したいまではさらに"なかったこと"になっている。(中略)
 不思議なことに、わたしは母より、父に対して怒っている。母は病気だったと思う。心の。でも父はちがった。多分、父に助けてほしかった。でも誰も……わたしを助けない。

 ここで一つ踏まえておかなければならない点がある。桜庭が『SFマガジン』のインタビューを受けたとき*5、インタビュアーから桜庭の作品は父親が敵になっているという指摘をされ、それに対して桜庭は、母親にすると若年層にはつらいのではないかと思ったのだと述べている。だから、ある程度の時期まで、桜庭は母親と娘との葛藤を書くことをセーブしていたと推察される。
 真由の場合、明らかに直接的には母親との関係において問題が発生しているのだが、それを父親との問題にシフトさせているのが上記の引用から読み取れるだろう。


続く。

 
 

*1:ちなみに、直木賞受賞の頃まで、桜庭一樹作品のほとんどすべてが同じ形態を持っている。

*2:この会場は言うまでもなく、『blue』における学校、『晴れの日〜』における広場と同じ、通過儀礼遂行の場である移行空間としての独特な機能を果たしている。しかも元々「校舎」であったというのも象徴的である。学校がしばしば管理統制の装置として論じられがちなのに対して、大塚英志は成熟を猶予される聖域、避難所としての機能が学校に存在することを見抜いていた。そして本作の舞台は廃校であり、統制機能が完全に失われた場所としてその意味がより明確になっている。

*3:しかしさとこが小学6年生だという年齢を成熟の契機として捉えるという視点もありうる。ちょうど「卒業」を迎える年でもあるし、早ければ初潮という契機も考えられる。

*4:娘の成熟を否定する、というのは母娘問題として興味深い論点である。

*5:いつだったかはメモが残っているはずなので後で調べます。