子供が関わるといろんなものが見苦しくなる

 そういえばid:kechackさんが「結局、世論は子供が犠牲になる事件はすべて重く罰して欲しいということ」という記事を書いていたんだけど、「死ぬ死ぬ詐欺」にもそういう要素はあるかもしれないなーと思った。子供という存在にある種の純粋さとか無垢さっていうのは多くの人が漠然と感じてしまっていることだけど、「死ぬ死ぬ詐欺」を言う人たちもそういう部分はあるのかなーとか思った。
彼らはネット右翼として「純粋なもの」=「ささげられるべき生贄」として変換しなきゃいけないのであんな風になっているのかなーと。考えて見るとネット右翼が叩くものっていうのは、いまま純粋性、無垢性、被害者性、正義性というようなイメージを帯びていたというのが共通している気がするんだよね。「募金」というのもそういうものだよね。「子供」+「募金」のダブル効果だったりしてね。

僕は間違っているのか?

 前々回のエントリ「2ちゃんねらー〜」においてfw0氏とsk-44氏から受けた批判について考えているのですが、どうもよく理解できません。自分としては、それってネット言論に顕著な「自分は中道」言説の一種じゃないの? という理解なのですが違うんでしょうか。
 sk-44氏かfw0氏が詳しく説明してくださればありがたいですし、あるいは他の誰か親切な方が「こういうことだよ」と説明してくださいませんでしょうか。身銭を切らずに他人の善意にすがりたいと思います(笑)。
 なんだか放置される可能性が大きそうですが一応張り出しておきます。

急募、頭のいい解説者。

死ぬ死ぬ何とか

そういえば、手続き上の問題を個別に語れって言うのは、「さくらちゃんのための募金」という固有性を捨象した上で成り立つ議論を「手続き上の問題の倫理」として一般化してしまっているんじゃないの? それで一人の人間の命に関わる個別性と手続きの個別性のどちらを優先させるべきかといったら常識的に考えて前者じゃないだろうか。