言説の「枠組み」

 前回のエントリでHIV感染者のセックスについてのあまりにつたない意見を書いたが、おそらく僕が考えている問題点は正確に伝わってはいないだろうと思うので、もう少し普遍的な問題について補足しておく。
 社会構築主義の立場に立てば、社会的問題というのはあらかじめ存在するものではなく、誰かが「これは問題だ」と言うから「問題」になるのだ、ということになるそうだ。そしてその「問題」というのが、実にさまざまな語られかたをする。たとえば学校の中で一人の生徒が自殺したとして、多くの人はそのような出来事を「問題」とみなし、あれが悪いこれが悪いといった言説を大量に生み出すはずである。いじめが、学校の管理体制が、親の育て方が、地域社会のあり方が、文部科学省の方針が、戦後民主主義教育の弊害が、日教組が、教育予算の組み方が、個人的資質や精神的な異常が、と実にさまざまな語りの「枠組み」があり、それらのうちのどの「枠組み」が全体の議論の基盤として採用されるのかはその時々の状況によって変わる。採用される「枠組み」によって、「問題」の中身としてのストーリーはいかようにも作られていく。
 だから本当は、自分が何らかの「問題」について語っているとき、どういう「枠組み」のもとにその「問題」を語っているのかという問いは不可欠のものとなるはずだ。自分はメタにヲチしてるのさ、という言説に僕がキレてしまうのは、そのような立場に立つ人もまた「問題」のストーリーやそれが語られる言語空間を作り上げていく構築メンバーのひとりになっていることを自覚していないからだ。何かを語った時点で、それはすでにメタではありえないのである。だからといって物事を相対化していくことを否定するわけではないが、ことばを発し続ける限り、「語る者」としての「立場」からは逃れられやしないんだよ、ということは言っておきたい。
 自分がある「枠組み」に沿って語ることで、別の問題が捨象されているのではないか、語られている事象の「当事者」たちがないがしろにされていないか、重要な問題を矮小化してしまっているのではないか、そういったことを、「本当のところはどうなっているのか」という冷静な視座のもとに常に省察することが必要であると思う。(しょうさつを変換しようとしたら笑殺になった。なんじゃそりゃ。2ちゃんねるのことか?)

 前回のエントリの発端となった議論もなんかあらかじめある対立構造のもとでかたらきゃだめみたいな感じでちょっとなあと思ったりして。でもうっかりすると優生的な今の風潮にのっかってしまうことにもなるかもしれないし、そのあたりのことを考慮すると安易なことはやはり言わないほうがとも思うし、そもそもそういう社会的政治的に多くの人に開かれたものとしても通用するような話にするとしたらやっぱり優生学の風潮を視野に入れなくてはならんのかねえ。でもそういう大雑把な枠組みでは切り捨てられてしまう重大な問題というのもあるきがしますです。まあ疑問に思ったら勉強しろってね。やっぱなんか言う前に勉強しないとかな、うん。勉強します勉強。