リスクを知らせておくということ

 HIV感染者のセックスについて考えたことを少し書く。
 まず一般的な議論に関して、感染者が社会に対する責任として(すなわち優生学的な見地に立った『神聖な義務』として)セックスをするべきではない(子供を作るべきではない)という意見に僕は賛同しない。
 またセックスをする相手に自分の感染を知らせずおくことについては、そもそも僕はクリスチャンであるから、夫婦以外におけるセックスを否定するわけであり、相手に知らせなかったことよりも、それが婚外交渉か否か、ということがまず問題である。夫婦の間のセックスであった上で相手に知らせなかった場合には今の僕には判断つきかねるが、基本的にそれは「家庭」の問題であって、外部からの介入は極力避けられるべきだろうと考える。
 婚外交渉の場合には特にノーコメントである。とりあえず、それは罪だ、と僕はつぶやき、場合によってはやめることを薦めるが、それ以上介入する気にはなれない、というより介入してもややこしくなるだけで無意味だと思う。(避妊と同性愛者間の場合でも同じ)
 次に、生まれてくる子供に関することを考えてみたい。といっても、生まれてくる子供に対して誰がどう責任を取るか、といったような話はここでは棚上げにしておく。僕が注目するのは、生まれてくる子供は、現実的に言って、さまざまな苦難を受けるであろうという、「あらかじめ予想されるリスクの存在のアナウンス」である。HIV感染者はいじめられる、それはいじめを生み出す偏見こそがまず問題だ、と人は言う。そのとおり、しかしそのように叫べば今そこにいるHIV感染者の子供がいじめられなくなるのだろうか。僕はここで議論の質が都合よくすりかえられているように思えてならない。いじめられるその子供のことといじめを生み出す偏見とは切り離せない問題だがしかし、「とにかく偏見がなくなればいいんだから、いじめられている子供、これからいじめられるであろう子供はそれまでちょっと我慢しててね」、というのはなんか違うだろう。*1
 さて、僕はここで「だからやっぱり子供を生むべきではない」と言いたいのではない。この問題に関してさまざまな主義主張があろうが、その前にまず、HIVの子供が生まれた場合に起こっている状況はこういうものですよ、という情報がきちんと知らされなければならないと考える。子供を生むか生まないかという判断の是非の前に、判断するための材料が十分そろえられるべきである。その後の判断は本人たちの「個人圏」の問題だとしても、あとで「だってしらなかったんだもん」とか言ったり、覚悟のないまま困難に会う彼らが傷ついていったりするのを見せ付けられるのは誰にとっても気分がいいものではないと思う。
 話は少しそれるが、例の早大だったか京大だったかの大学生の集団強姦事件に関しても僕は同じ感想を持つ。あれらの事件について語られる言説は「被害者にも責任が、いやそれは加害者を免罪している」、とかいった類の論議に終始してしまっているようだが、強姦に対する加害者免罪型の言説を批判するのは当然として、それはともかく女の子たちの抱えるリスクの大きさを教えるということを考える人はいないのか、というのが僕の一番問題にしたいところである。それをやったからといって相手の決断が変わるとはもちろん限らないが、常に被害者になりやすい立場にいるんだよ、いざ被害者になったらもう立ち直れんかもしれんよ、リスクを回避する方法はこうだよ、という情報をまずは与えるというのはちゃんとやらなきゃだめだろうと思う。
 あくまで「監視」とか「優生」とかに陥らない範囲でだが、「そっち行ったら苦しいかもしんないよ」というクッションをひとつ入れてやることがやっぱり大事なんじゃないかと思うよ。

2/10:若干修正

*1:あるいは僕はここでなにか馬鹿な勘違いをしているのかもしれない。もしも指摘があれば教えて欲しい。