最近の学生の傾向について

 迷惑 - 猿虎日記(さるとらにっき)
 上のエントリで「最近の学生ってなんか政治に関心なくてさあ」という話が出ていたので現役学生として感じていることを少し書いてみたいと思う。
 とりあえず、リンク先のコメント欄で、「あ、そうだな」とかなり納得できたのはmojimojiさんの以下の指摘。

大多数の学生は、政治的なトピックについて何かおしゃべりしているのかもしれませんが、それを相手にぶつけて相手の意見を変える、という志向をほとんど持っていません。関係ないところで好き勝手言うだけなのであり、それは観客的関心であって参加主体的関心ではないんですよ。

 こういう感じはかなり正確だと思う。何か意見をぶつけ合うというようなことは徹底して回避されている印象がある。
 これは直接政治的な話題と言うわけではないけれども、あのハーレムを作ろうとした小林とかいう人の事件があったころに、性犯罪者に対する対応をどうするかみたいな話を僕のアパートに来ていたHという奴とした。
 で、Hがその話題に「乗って」くれた理由というのを自分で語ってくれたんだけど、それが「友達であるお前がそういう話題が好きだから」というような理由なんだよね。つまりどういうことかというと、Hにとって僕との会話は意見の差異を認識して論争するというような性質のものでは全然なくて、むしろそういう話題で共に盛り上がることを「楽しむ・楽しませる」というようなことを考えているみたいなんだな。話題にしていることは「楽しい会話」をするためのネタに過ぎないというわけだ。で、そういう意識で話しかけてくるもんだから、まさか自分の意見が否定されるとは思ってなくて、「××はこうだよな」みたいな決め付けた言い方をしてくるわけ。((しかもこの時の意見がマスコミが垂れ流すようなめちゃくちゃステレオタイプで多数派の意見だってところが多分重要な点だ。))でも僕のほうは純粋に議論をしてるつもりだから「なにいってんだ違うだろ」ということを言う。そうするとちっとも話がかみ合わなくて、いつの間にか何のために僕たちは「話す」のか、という話題にずれ込んでいた。
 そっからは結構面白かった。Hにとっては最初の話題だった性犯罪者に対する対応というのはネタに過ぎないけど、「友達とどういう意識で会話をするか」、というのは彼にとって彼の実存を賭けて戦うべき問題だったからだ。Hによれば、「自分の本音を相手にぶつけるなどということは裸で街を歩いているような恥ずかしい行いだ」、ということになるらしい。むしろ、その場その場の空気に自分を順応させ、相手を楽しませたり場を盛り上げたりすることが能力の証明であり、かっこいいことなのだ、と彼は言い切った。これは現在の若者の意識の傾向をかなり正確に反映しているのではないだろうか。僕が考える「能力」や「かっこよさ」というのはそれとは真逆のことである。自分がその時なんと反論したかは覚えていない。ただ最後のほうはお互い泣きそうな感じになってた。*1
 その後のHの言行録としては、女子の「かわいい」というのが理解できないとか、まんがの『お〜い、龍馬』を読んで西郷隆盛は漢だ、と言ったりとか、どうも男っぽさを装おう傾向が目立つ。Hと仲のいいKという女の子も「そうそう、Hって男っぽさを装おうとしてるよね〜、成功してないけど」と同意してくれたので多分僕の分析は正確である。
 おそらく、Hのような若者は友達との親密さを維持するために多大な労力を裂き、自分の能力やかっこよさをそれによって証明しようとしているのだが、しかし自分の本音というものを隠蔽し続けるうちに「本当の自分」がわからなくなって内面が空洞化するという現象が発生し、そのため何らかの欠落感を持っているのではないだろうか。そしてその欠落感を埋めるために求められるのが「男っぽさ」を体現してくれる伝統から切り離された現代的なナショナリズムなのではないだろうか。もちろん「本当の自分」というのは幻想に過ぎないが、「多様な自分」を意識的に使い分けている分、「これは本当の自分じゃない」という思いが逆に強くなり、強力なアイデンティティを求めやすくなるのではないかとも思う。

*1:そうそう、その日はHが先輩からミートソースもらったから僕のアパートでパスタでも一緒に食うかという話になって食べ終わって一服してたらそんな話になったんだったなあ