最近の若者の傾向について2

 http://d.hatena.ne.jp/mushimori/20060223の続き。
 前回のリンク先の記事の主題は「迷惑」ということばの意味の変遷についてであるが、その主題からはややはずれたことを書いたので、今回は正面から扱ってみようと思う。
 前回書いたとおり、「最近の若者」は友達との親密圏を作出・維持するために多大な労力を裂いている。昔から今に至るまで友達をつくるための努力というものを一切したことがなく、友達なんて自然にできるものだと思ってきた僕としてはまったく想像できない世界だが、彼らの友達関係というのは他世代が考えるよりもはるかに「重い」ものとして認識されている印象がある。友達に対するあまりの誠実さのゆえに公共に対する誠実さがないように見える、というような分析をどこかの誰かがしていたような気もする。
 さて、そのようにして必死に作った親密圏にとって最大の脅威とは何だろうか。
 それは主義主張である。
 Hが「本音を相手にぶつけるなんて事は裸で街を歩いているのと同じような恥ずかしいことだ」と言っていたことを思い出そう。彼らにとって最大の価値は平和で楽しい親密圏が維持されることである。しかしそれは、自分は「本音」を隠している、という意識を常に持たざるを得ない空間である。この「本音」というのは「主義主張」と置き換え可能だろう。主義主張が互いに完全に一致している人などというのは考えにくい。主義主張を述べて自分の立場を明確にすることは必然的に相手との“ある側面においての”対立を発生させる。これが若者の親密圏に亀裂を生じさせる「超危険因子」であることは明白である。彼らにとって「対立」という概念は即「敵と味方」に二極分解するものとしてしか捉えられない。それは「すり合せられるもの」あるいは「乗り越えられるもの」あるいは「共存していてかまわないもの」という発想はないのである。おそらくこれは「空気を読め」という言説と同類の思考である。とすればこれはもはや「最近の若者」だけの問題ではなく、構造的には今の日本社会全体に広く蔓延していると考えられないだろうか。おそらく「若者」以外の人たちにとっての親密圏というのが友達よりもちょっと広い、たとえば近所とかいう程度の違いではなかろうか。id:rir6さんがこの間書いていたのに倣えば「守るべき日常というイデオロギーの蔓延」ということになろうか。*1
 しかし僕が疑問なのは「守るべき日常」なんてものが厳然とあるのだろうかということである。むしろ、自分の足場が全く見出せないので、必死に自分が着地するための「日常」を“作り出している”と言ったほうが正確ではないかと思う。大塚英志は、戦前のナショナリズムは一生懸命「伝統」を捏造して「日本」や「日本人」というものの根拠を示そうとしたのに、最近のナショナリズムはどうしてこうも薄っぺらいんだ、というようなことを言い、香山リカはそういうナショナリズムを「ぷちナショナリズム」と呼んだが、そのような新旧ナショナリズムの差は「本音」を隠す親密圏の性質によるものではないかと思う。戦前のナショナリズムは「根拠」を捏造したが、今は逆に「根拠」があってはいけないのである。根拠があって繋がることは彼らにとっては「踊らされている」ことを意味するからだ。「本音」を隠し続けるあまり、ついに何が自分の「本音」なのかも分からなくなった彼らはあらゆる主義主張(として顕在化しているもの)を、自分を洗脳するもの、躍らせるものとしてしか捉えられないのである。彼らが欲しているのはひたすら平和に「繋がる」ことであり、*2その媒介ネタはワールドカップでも北朝鮮でもライトノベルでもなんでもいいのである。ただ、左翼、北朝鮮、中国、韓国といった相手は自分たち*3を批判するために、彼らの二極分解思考では親密圏を破壊する「敵」として認識されることになる。また、自分たちの親密圏に入ろうとしない他者も、積極的に主義主張を述べなくとも「やがて危害をもたらすかもしれない存在」という「リスク」、そして最終的には敵、という認識のされ方をすることになる。そして、「敵」を創出することによって、「ともに敵を倒そう、排除しよう」という共同性が生まれる=“結果的に”繋がることができる。だから単に攻撃するのではなく、親密圏における会話の「ネタ」として「敵」を「笑いもの」にするという構図が成立しもする。
 しかし、ただ単に繋がることを求め、ひたすら根拠を持つことを拒んだとしても、実際には「右傾化」としか見えない方向にことは進んでいる。ただ、彼らの「右」は普通の右とは違うものだと思う。それは「根拠なき右傾化」とでも言うべきものである。
 そして、ここで重要になるのが、「本音」を隠して「多様な自分」を使い分けるあまり、「本当の自分」を渇望してしまうようになるというメカニズムである。おそらく彼らはただ「繋がっている」だけでは満たされないと思う。そのままでは「本当の私を分かって、認めて」という欲求が満たされないからだ。その欲求不満の解消のために持ち出されるのが、先ほどの「敵」なのではないか。「悪の敵を倒す勢力の一員である自分」という役割は傍からはちっとも個性的には見えないが、少なくとも「自分は何か立派な事業に関わっているのだ」、というささやかな「誇り」を持つことが可能だろう。彼らは自分に「誇り」を“与えてくれる”ものに飢えている。踊らされるのが嫌いなのに、その種の誘惑には彼らは弱いのである、多分。
 僕はここまで、「最近の若者」という曖昧なくくり方をして、しまいには「若者に限らないんじゃないの?」というあやふやな書き方をしているが、それというのも世代間の差というものがなきにしもあらずのようだがうまくつかめていないからである。
 いくつか世代に関する言説を取り上げてみよう。
 大塚英志はおたく・新人類世代を「50年代の終わりから60年代の初めに生まれた世代」と言っており、1965年生まれのsarutoraさんはそれだと新人類としては世代的に少し遅いということになる。また大塚は、「全共闘って結局流行り病みたいなもので最初から失敗するのが分かってたようなものでしょ、あれに参加してた人たちって要するに運動に参加してる自分を創ることで自己実現したかっただけでしょ、だから簡単に転向できちゃったりするわけでしょ」というような意味のことを言ってたような気がするんだけど、どうだったかな。なんかそれだといまのネット右翼的なものの萌芽がすでにそこにはある気もするんだけど、ていうか、最近の僕の理解では、戦前の一般大衆レベルにおける意識も、お国の戦争に貢献する自分ていう「ポジション」に酔ってるようなところが大きかったんじゃないかと思ってるんだけどね。斉藤美奈子モダンガール論 (文春文庫)なんかを読むと、特に主婦なんかが戦争中に自己実現の場を与えられて喜んでたことが良く分かる。そうなると、ナショナリズムの構造って大衆レベルでは昔からぜんぜん変わってないのかもなあと思ったりする。たまたま全共闘はその熱狂が左の方にぶれただけなんじゃないの、という気がしている。
 えーっと、それでおたく・新人類世代の人たちというのはそういう全共闘の失敗を下から見ていて白けちゃったんで、全共闘的な「熱狂」のにおいがする「運動的」なビラ配りとか民青みたいなものに冷淡で無関心になったんじゃないかと思う。全共闘の人たちも転向してしまった後はとりあえず自分たちの失敗を何かのせいにしたくて戦後民主主義批判をやりはじめたり、「運動的」なものとか「反体制的」なものに過去の自分の恥ずかしい姿を見て思わず攻撃してしまったりして、政治に参加する主体を抑圧する風潮を作り上げていったんじゃないだろうか。
 さて、その下になると今度は団塊ジュニアなんだけど、どうも「ネット右翼」の中心勢力ってこのあたりなんじゃないかなあ。なんとなく。でも、実は団塊ジュニアってどのあたりの年代だか良くわかんないんだよな。香山リカ貧乏クジ世代―この時代に生まれて損をした!? (PHP新書)というのがあって、読んではいないけど、アマゾンの紹介記事ではこんな感じ。

その数、なんと1900万人! 「第2次ベビーブーマー」「団塊ジュニア」と称される一群を含む70年代生まれ、いま20代後半から30代前半の彼らは、ひそかに「貧乏クジ世代」とも揶揄される。
物心ついたらバブル景気でお祭り騒ぎ。「私も頑張れば幸せになれる」と熾烈な受験戦争を勝ち抜いてきたが、世は平成不況で就職氷河期
内向き、悲観的、無気力……"自分探し"にこだわりながら、ありのままの自分を好きになれない。「下流社会」「希望格差社会」を不安に生きる彼らを待つのは、「幸運格差社会」なのか?
[貧乏クジ世代の特徴]「これまでよかったから、もういいことはない」/恋人、夫婦間で深い対話ができない/マニュアル本や自己啓発系の本を読みたがる/不運の原因を「血液型」や「前世」に求めたがる/「勝てばまぐれ、負ければ自分のせい」/頑張っているとき以外は不安でしょうがない/「こうしてもらいたい」と言葉で説明できない

 というわけだが、これがなんでネット右翼と結びつくのかというと、要するに80年代にメディアに踊らされて悔しいってことなんじゃないか。夢を見させておきながら味わわせなかったなちくしょー、という感じで。*4そしてそれが転じて理想主義者嫌いになるとかね。うーんでもやっぱり団塊ジュニアはよくわかんないな。ネットをめぐっていると、大抵この年代の連中のこと嫌だなーと思うんだよな。*5僕は多分ポスト団塊ジュニアとポストポスト団塊ジュニアの間の辺りなんじゃないかなー。自分の世代以下のこともよくわからないな。一応Hの例は出したけど、Hの特徴は団塊ジュニアかポスト団塊ジュニアなんじゃないかなあととりあえず思っている。北田暁大が『嗤う日本の「ナショナリズム」』の中で博報堂生活総合研究所のデータを取り上げて、ポスト団塊ジュニアのソーシャル・イシューへの関心が高いことから、「最近の若者の人間関係は希薄で、政治への関心が薄い」という70年代以降の若者論の常識が通用しない世界に現代の若者は生きている、と述べるのだが、そもそも示されたデータにおける「ポスト団塊ジュニア」というのが何年代にうまれたのかというのがよくわからない。また、北田はそうした若者の象徴的存在として窪塚洋介を上げているのだが、彼は1979年生まれで僕より4歳年上である。2ちゃんねるとかね、ああいう世界は僕よりも年上の人たちが作り上げた空間だという思いがあるんだよね。2ちゃんねるには「厨房」とか「工房」といった侮蔑語があるけど、2ちゃんねるが隆盛を極めていた頃って僕は確か中学か高校くらいじゃなかったかと思う。そうするとやっぱり北田の想定するような「若者」というのは僕の世代以下よりも年上の連中じゃないのかなあ。だから、「今の二十代」が政治に関心があって「現実主義的」、「保守的」な傾向を示しているからといって、「二十代以下の層」がそうなっていると一くくりにするのは乱暴ではないだろうか。僕の周囲を見た実感では、そもそも政治的にどんなことがトピックになっているのかさえわかんない、憲法が改正されそうなことさえ「知らなかった」とかね。2ちゃんねるの存在も電車男がテレビでやってたんで初めて知ったとかさ、なんというのかな、自分の興味関心のあるものにこじんまりと落ち着いているという感じだと思う。自分の興味関心に引っかかれば手を出してみるというね。差異化のゲームとかね、無理に個性化しようとかいう風潮もやっぱり僕たちの世代ではなくて、もうちょっと上の世代がやってたことのように思うんだよねえ。ただ、隣接した世代ではあるから、互いの文化にクロスして存在している人もそれなりにいるとは思うけどねえ。ああ、あと、一昨年、水谷修の講演を聞きに行ったら、いまは少年犯罪の第4次多発期、しかも軽犯罪が目立つというようなことを言っていたな。今の子供は反抗する元気もなくて代わりに手首とか切っちゃうんだとか。結局、よくわからん、としか言いようがない。今後僕たちの世代が社会に出て行くにしたがって(いや、ニートとかひきこもりという可能性もあるけど。あ、ニートとひきこもりが違うんだということは分かりますよ。本田由紀さんにおこられちゃうよなはは。)徐々に全体的な傾向も明らかになっていくのではないかな。
 えっとだんだんまとまりがなくなってきたし何が書きたいかわかんなくなってきたのでこの辺で止めにしたいと思う。それで最後に強調しておきたいことは、僕の二つ上に酒鬼薔薇聖斗がいるということ。つまり僕の世代はポスト酒鬼薔薇世代なのだ。と、なぞの台詞を残して終わる。
 
 
 

*1:しかも、そのエントリのブックマークで誰だったかが「主義主張の垂れ流しではなく、情報の提供が必要」というコメントをしていたのが象徴的である。この「主義主張はいらないが情報は欲しい」という感覚は僕がHIV感染者のセックスに関して信仰と社会状況への抵抗の折衷案としてひねり出した「情報を提供する」という「主張」に同意のトラックバックが(不本意ながら)飛ばされてきたことも含めて、これから問題になっていくと思うので一応指摘しておきたい。そんな主義主張の絡まないニュートラルな「情報」なんてありますかね、という話でもあるし、「情報」だけを客観的に見ているつもりが実はそうでないことに気付かない、という話でもある。

*2:繋がりの社会性、だっけ?

*3:「日本」を批判されて「自分」が傷ついたように感じるのはすでに規定の枠組みの中に組み込まれてしまっていることを意味するはずだが、彼らの意識は多分そうではないのだろう。

*4:80年代というと僕はまだ幼児だったんで、その「狂騒」とやらは良く分かりませんな。うちって田舎で結構貧乏な家庭だしさ。

*5:まあ、この年代の人間にかつていじめられた、というのは白状しておくけど