河上亮一『教育改革国民会議で何が論じられたか』

教育改革国民会議で何が論じられたか

教育改革国民会議で何が論じられたか

 広田照幸の『《愛国心》のゆくえ』と一緒にいくつか借りた教基法「改正」問題本の一つ。プロ教師の会の河上が教育改革国民会議の様子をメモしたものをそのまま本にした現場報告の形になっている。
 これを読むと現在の教基法「改正」問題が、「愛国心」に集約されるのはなぜかということの一側面が見えるように思う。
 河上によれば、国民会議において、実は多くの委員が「エリート教育」の志向を持っていたらしい。いわゆる「世界に羽ばたく日本人」のようなキャッチフレーズとも関連するものだと思うが、いままでの日本の教育は横並び平等主義で真のエリートを作り出す環境がなかった、これからはもっと世界に通用するような日本人を作らなければならない、という主張が教基法「改正」問題がいまのようにクローズアップされる前の底流としてあったし、また中教審の答申でも「国際社会で通用する日本人」という像が描かれていたはずである。そしてそのような言説と、大塚英志が指摘する、戦後民主主義批判の潮流は親和性が高い。
 大塚によれば、最近の戦後民主主義批判言説は、大衆批判と、また大衆と自身の差別化すなわち階級作出願望によって特徴付けられる。つまり、エリート教育への志向とは、単に優秀な人材を欲するという以上に、階級による差別化を意図しているのである。たとえば「勝ち組」「負け組」という分類も、どちらかといえば「勝ち組」として認知されたい人々の欲望に即して成立しているものだといえる。『週刊新潮』で池田晶子は「経済格差」に反発するのはどうせ「負け組」になる人たちだろう、貧富の差が「格差」だなどと思っている人間は格が低いというようなことを言っており、「負け組」の心性に問題を帰着させているが、それはあべこべである。確かに貧富の差に「負け組」の人たちが反発するというのはそうだろうが、それを「格の差」にしようとしているのは「負け組」の人たちではなく、「勝ち組」の人たちである。『オタクエリート』などという雑誌が出て創刊のコメントをササキバラ・ゴウに批判され、いつの間にかコメントの内容が変わっていたなどということもあったが、そういう業界にまで、この階級を欲望する心性は浸透していることを見ることができる。
 ところが、教育改革国民会議ではこのエリート願望に河上亮一が猛反発した。エリート教育をすることができるような状況ではない、学校はとんでもないことになっている、と河上は主張したのである。もちろん河上の主張だけが大きな影響を与えたとはいえないと思うが、「世界に羽ばたく日本人」というよりは「ちゃんとした日本人」を育成するという方向性に議論が傾いていくことの一助となったようには思う。
 しかし、今後も階級願望に基づくエリート教育への志向は新自由主義の潮流とも相まって続いていくだろう。生徒の態度、内心、家庭を射程に入れた道徳・管理教育に加えて、経済的階層差を恐らくはそのまま反映するエリート教育(すなわち経済的に豊かであるゆえに高質の教育を受けることができ、またそれゆえにさらに行政の支援を受けられる層の教育)が行なわれることになるのではないだろうか。
 それでもいいじゃん、という人になんと答えるべきか、考え中。