左翼嫌いの言説パターン

 id:kurotokageさんのところで丁寧な教基法「改正」批判の記事が書かれているのだが、その記事に寄せられたコメントがいまの日本の「空気」というか「ことば」の質を正確に反映しているように思えたのでちょっと書いておきたい。以下、件のコメントの引用である。

錐生 零 『初めまして。良く見させていただいております。
一応遊戯王プレイヤーの底辺プレイヤーとして色々やっております。余りこういった場に慣れていないのでご容赦の程を。ディベートは独学でやりましたが、実戦経験が全く無いのです。

>私の人生は高校卒業から始まったと、本気でそう考えています。
この文章のおかげで多少は頑張れそうです。私の人生はまだ始まっていません(高校は卒業しましたが。浪人の身です。)

前述の愛国心教育に関しては、とても興味深く読ませていただきました。私は最初は、別にたいしたことではないと思っておりましたが、「評価する・される可能性」があるということで目が覚めました。これは、私が思っているよりも問題になる可能性があると。私の場合は、学校で第九条についての寸劇をやらされたり、憲法の前文を卒業式の余興として暗誦させられたりして、ずいぶん嫌な思いをしてきて、左翼と呼ばれる人達には恨みさえありますが(高校時代には、「悪魔の飽食」で読書感想文を書く羽目になりましたし、踏み絵とほぼ変わらないような意地悪なテストの自由文章を教師の思想にあわせて極左色に書いた事もあります。)、これと同じ事を繰り返されると思うと寒気がします。自分にとって賛成の意見を押し付けるのも反対の意見を押し付けるのも真っ平ごめんです。どちらにしたって自分がされた事と同じ事をするのですから。

・・・トラウマが噴出しすぎました。

「六十年前に原爆が投下された時にあって、今無いものが何なのか」−は自分が右だと思っている私にも分かりませんが、今も昔もない物については、良く考えさせられます。最も、考える力なんてあったらあったで、学校がより退屈になるだけですけどね。

 このコメントの中で指摘しておきたいことは四つある。一つは最初に「ディベート」という単語が出てくるということ。二つ目はこの錐生零という人が学校教育における一方的な「左翼的」教育に嫌悪感を持っているということ。三つ目は錐生零氏は意見を「押し付けられる」ではなく、「押し付ける」ことに反発するという言い方をしていること、またそもそも「押し付け」に敏感であること。四つ目は、錐生零氏の自己規定が「右」であることである。
 まず一つ目の点から見てみたい。錐生零氏は、暗黙のうちにこの教基法「改正」問題を語る空間が「ディベート」によって成り立つものだと思っている。僕はこのように議論を簡単に「ディベート」と言ってしまうことばの質に違和感を覚える。
ディベート」ということばを国語辞典で調べると、以下のような意味が乗っている。

討論(する)。ある話題について、肯定する側と否定する側の二組に分かれて討論をすること。(強調部引用者、「新明解国語辞典」第五版)

 つまりディベートにおいては最初からある命題を「肯定するか否定するか」という狭い範囲に議論が限定されることがわかる。大塚英志はこの「ディベート」ということばのあり方についてさらに突っ込んだ指摘を行なっている。以下は角川文庫の『戦後民主主義リハビリテーション』に収録された「ぼくらの時代のオウム真理教」という文章からの引用である。

『危険な話』*1であれば、少なくとも八〇年代末の消費社会に生きていることへの本能的なやましさという、最低限の歴史認識が擁護され、免罪される。だが、オウムの場合はあまりに場当たり的に、ただ目の前の嫌疑への弁明として持ち出されるだけで、その背後に擁護すべき彼らのお「歴史」がどうにも見えてこない。

ディベートという言説

 こういった印象は一つには、オウムを代表してメディアに頻繁に登場した上祐史浩のそれと重なりあう。彼が早稲田大学に在学中、英会話サークルに所属し、ディベートに優れていたことはいくつかのメディアで報道されている。
 そのディベートの技術は対マスコミにも活用されており、その弁舌にテレビの中でやり込められたり、説得されてしまう人々も相当いた。だが、彼がそこで行なっていたのは、まさにディベートであってそれ以外の何ものでもないことに気づくべきだ。
 ディベートとは競技としての論争であり、与えられたテーマで定められた時間内に論争の勝敗を決めるゲームである。
 つまり、論議は極めて狭い枠の中で相手のミスをつき、同時に自らを正当化するロジックをその場でいかに完結させるか、というゲームである。上祐の行なっているのはまさにこれで、彼は一つ一つのディベートには一見勝利したり逃げきっているのかもしれないが、それらの言説は結局ディベートの中で自己完結している。
 だが、個別のディベートでは「陰謀」説を説き、メディアの誤報や権力のでっち上げを主張し、相手を論破した上で彼がいかなる「全体」=歴史を語ろうとするのかが全く見えてこないのだ。彼らが擁護すべき思想、歴史認識、信仰、そういったものの輪郭を上祐のディベートは描き得ない。

 すべてのディベートがこのようなものではないのかもしれないが、錐生零氏は明確に「ディベート」の「実戦経験」と述べているのであり、やはりどうしても「ゲーム」的に「勝敗」を決することを「ディベート」と呼んでいる印象がある。錐生零氏のコメントの中でそのような「ディベート」が行なわれているようには見受けられないが、議論することがすなわち「ディベート」であるかのような印象を錐生零氏が持っているのだとすれば、いまの僕たちの社会にあることばがそういうものになっているという風潮には注意が必要だろう。
 二つ目の点だが、学校で不当な「左翼教育」を受けたので日教組左翼が大嫌い、というのは最近ネット上でよく見かけるようになった感想である。日本における「左翼」の脆弱さはすでにいくつも指摘があるし、学校教育におけることばの質も低いものであることは多分そのとおりだと思う。しかしそうした「左翼」批判はたいていの場合、単なる「嫌い」という感情にとどまってしまう。さらにこれは四つ目の指摘にも関係するが、「左翼」が嫌いという感情が自分が「右」であることの根拠になってしまう場合もある。
 
つづ、かないかもしれない・・・。

*1:「典型的な反ユダヤ本」で、80年代後半にメディア業界を中心にブームとなった、と大塚は書いている。