「森の熊さん」における少女と熊の関係

「森の熊さん」は戦後男性の自己像である

 宮台真司のブログで読んだサードオーダーについての文章を読んでちょっと考えたので書く。大塚英志が謙遜して言うのとは違ってほんとに頭悪い僕には宮台真司の文章全体の主旨は全然わからないが、「森の熊さん」の歌詞の解釈に関してのみ違和があったので整理してみたい。*1
 宮台は、熊と少女の行動は支離滅裂だという説を採用している。しかしそれは熊にも少女にも感情移入せず、客観的に相互の関係を把握しようとするからそう思ってしまうのである。そうではなくて、このストーリーの登場人物に感情移入すれば「森の熊さん」のストーリー展開は容易に理解可能なものとなる。すなわち、熊の視点に感情移入して、その心情からストーリー全体を把握するべきなのである。
 そしてそこから導き出される結論は、「森の熊さん」において熊は戦後男性*2の自己像であり、歌詞全体は彼らの「主体」の根拠をめぐる寓話としてある、ということだ。
 したがって、まず理解されるべきなのは「森の熊さん」が性的な意味を持つ物語であるということである。つまり「森の熊さん」は戦後の男女の関係を男性視点によって象徴的に構造化した物語なのである。
 それでは歌詞を順番に見ていこう。最初に「ある日、森の中、熊さんに出会った」とくる。ここで注目すべきなのは、この物語の主人公は「お嬢さん」すなわち「少女」であり、表面上はこの「少女」の視点で出来事が語られているかのように見えるということだ。それゆえ、本来この物語における語り部であるべき熊は、「少女が」出会う対象として客体的に描かれるのである。
 さらに、「少女」が出会うのは「王子様」でも「少年」でもなく、「熊」である。しかも「少女」が逃げなければならないような「怖い熊」である。だが「怖い熊」だと判断し、逃げろと言っているのは「少女」ではなく、「熊」自身である。歌詞の後半で、実はこの熊は「少女」が落としたイヤリングを拾って届けてくれるような「心優しき熊」であることが判明する。*3ここで「熊」が戦後男性の自己像だということを踏まえて考えると、戦後男性の自意識は以下のようになるだろう。すなわち、「自分は自分が欲する相手の女性に愛されるに値しない、むしろ傷つけてしまう存在である、それゆえに自分は自分が欲する相手の女性に近づくことができない」。このように、相手の女性を欲しながら自分はそれに値しないという屈折した自意識のあり方が「森の熊さん」の歌詞には託されているのである。
 その傍証として、「森の熊さん」を作詞した馬場祥弘による別の歌詞である「ケメ子の唄」を引こう。

「それは去年の秋でした。

 1人の少年が町で会った女の子に恋をしました。

少年は胸をときめかせながら

そしてついに云ったのです。 好きです。」

(中略)

昨日ケメ子に会いました

星のきれいな夜でした

ケメ子と別れたその後で

小さな声で云いました

好き (好き) 好き (好き)

僕はケメ子が好きなんだ

(中略)

僕はケメ子が好きなのに

ケメ子は何にも分からない

僕の気持ちをお星様

ケメ子に伝えてくださいな

好き (好き) 好き (好き)

僕はケメ子が好きなんだ

(中略)

私の名前はミスケメ子

あなたは鏡を持ってるの

吐き気をもよおすその顔で

私を好きになるなんて

嫌い (しょぼん) 嫌い (しょぼん)

私はあなたが嫌いです

「吐き気をもよおすその顔で、私を好きになるなんて」というのは、女性の口を借りて男性の自己像に言及しているのであり、自身を「少女を傷つける怖い熊」と規定するのと同様の意識が窺われる。
 このような戦後男性の屈折した自意識についてはササキバラ・ゴウが『〈美少女〉の現代史』(講談社現代新書)の中で詳細に論じている。ササキバラ宮崎駿監督のアニメ映画『ルパン三世 カリオストロの城』の分析を通して「美少女」*4というものがどのようにして生み出されたのか、その構造を描き出している。
 ササキバラによれば、『カリオストロの城』は古典的な王子様とお姫様の物語である。泥棒であるはずのルパンがなぜか王子様の役割を担っている。しかしもともと王子様ではないルパンがお姫様の救出をするためには「王子様」という立場に代わる根拠が必要であり、本作では仮想的に「恋愛」というものを根拠にしてルパンは王子様の役を演じている。

 しかし、ここでひとつ問題があります。
 お姫様は、単にお姫様であるというだけで、王子様に愛される根拠を持ち、また王子様を愛する根拠を持っています。「王子様とお姫様の物語」とはそういう世界です。そこにはなんの疑問も生じません。しかし、本来王子様でないにもかかわらずこの別世界にまぎれこんでしまったルパンは、お姫様を愛する根拠も、愛される根拠も持っていません。「恋愛」という感情を仮想することで、なんとか「愛する根拠」の方は捏造できましたが、「愛される根拠」の方は存在しないのです。そればかりは、泥棒でしかないルパンがいくらがんばっても、どうにもならないことです。
 この欠落を、どうやって解決したらいいでしょうか。
 たぶん、方法は一つです。愛される根拠を持たない男が、お姫様との恋愛を成就させようと思うのならば、「お姫様の側から一方的に愛される」以外に手段はありません。根拠を欠いた王子様が本当の王子様になるためには、お姫様の側が自分を王子様だと認めてくれる以外に、方法は存在しないのです。ルパンは、そういう受け身の立場にならざるをえません。
 このとき、その男の命運は、すべて彼女の手に握られることになります。自分という男の価値は、彼女によって裏づけられることになるのです。そういう事態が、ここで生じています。私という男の価値を裏づけてくれる絶対的な存在として、そこに「彼女」という存在が出現しています。
 クラリスとは、そのようなキャラクターです。
 恋愛的な物語の中で、無根拠な自分に根拠を与えてくれる存在――それが「カリオストロの城」で宮崎駿が生み出した美少女のイメージです。
 これはもはや、男にとって絶対的な存在といわざるをいません。男である私の価値を決定し、私ごときに*5恩寵を下さる、崇めるべき女神のようなものとして、「美少女」がイメージされています。
カリオストロの城」が、まさしく「美少女アニメ」であるというのは、この点においてです。

つづく。

*1:いや、サードオーダーを語るための単なるフリかもしれないけど。

*2:とくに「おたく」に代表されるような人々

*3:物語の法則のようなものとして、“物語のなかで”こういう親切な行動をすることはその人物が「心優しい」人物であることを暗に示す。

*4:すなわち「クラリス」。「森の熊さん」では「お嬢さん」に、「ケメ子の唄」では「ケメ子」に該当する

*5:原文傍点