ユクスキュルがハイデガーに与えた影響
- 作者: 木田元
- 出版社/メーカー: 新書館
- 発売日: 2004/12
- メディア: 単行本
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生物学的世界概念の系譜
もう一つ、ハイデガーの<世界内存在>の概念の形成に影響したと思われるものに、ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(一八六四〜一九四四)の<環境世界理論>に代表される生物学的世界概念の系譜がある。そして、現象学的世界概念と生物学的世界概念というこの二つの世界概念の系譜を繋ぐ役割を果たしたのが、同じフッサール門下でハイデガーにとっては兄弟子にあたるマックス・シェーラーである。
エストニアの貴族の出身であり、生涯のほとんどを在野の生物学者とあいて生きたユクスキュルの<環境世界理論>とは、きわめて簡単に言ってみれば、動物のそれぞれの種にはそれぞれ特有の環境世界――その構造は、当該種の受容器つまり感覚器官と実行器つまり運動器官の特性に依存している――があり、動物は受容器と実行器を介してその環境世界と<機能環>とも言うべき適応関係をとり結んでおり、その環境世界に適応しているそのかぎりで動物として生存しうるという考え方である。ユクスキュルのこの思想は、近代の物理学帝国主義のもとで、生物学が物理科学と抵触しない分類学と解剖学と機械論的生理学に限局されていたなかで、生物学に<主体>と<意味>というカテゴリーを復権した革命的な思想であり、これが二十世紀の生態学や動物行動学に道を開くことになったのである。[略]
ユクスキュルの影響
前に述べたように、『存在と時間』ではフォン・ベーアの名前は出されているが、ユクスキュルへの言及はない。同時代のユクスキュルの環境世界理論を持ち出し、肯定するにせよ否定するにせよそれとの連関を話題にするほうがずっと話がはやそうに思えるのだが、どうしてそうしないのか、ハイデガーのやり方には分からないところがある。講義でそうして持ち出してみせるのだから、肝腎のネタを隠しておこうなどといったケチな魂胆ではなさそうだが。
ところでたしかにここでの口吻からすると、〈世界内存在〉という概念の形成に生物学の影響があるという見方は間違いだといっているように聞こえるが、よく読んでみればここで言われているのは次のようなことである。つまり、実証的な生物学的研究そのものからは環境世界理論のようなものは生まれてくるはずはないのであって、こうした理論を形成するとき生物学者は哲学者として考えているのだというだけのことである。そうだとすると、これはけっしてユクスキュルから受けた影響の否定にはなっていない。影響を受けはしたが、それは生物学者ユクスキュルからではなく、自分自身の現存在に即して世界内存在という存在構造を了解していた哲学者ユクスキュルからだ、と言っているだけなのである。
(木田元『ハイデガー拾い読み』(P.60〜66))