責任は誰にあるか

 一年生の教養課程のときにモンゴルについての講義を受けたことがあった。そのとき期末のレポートでハルハ河戦争(ノモンハン事件)をテーマに書いた。
 資料に使ったのは半藤一利ノモンハンの夏』だった。この本の中では辻政信関東軍参謀の馬鹿ぶりを中心にしてハルハ河戦争の歴史的経緯が書かれている(と僕は思った)。実際、著者あとがきにおいても辻政信参議院議員になったときに*1半藤は辻に会い、そのとき辻は日本も軍備せねばならんというような妄言を騙っていたらしい。それを半藤は目の前に「絶対悪」が座っているのを見たというふうに表現している。半藤の抱いた感情はもっともだと思うが、しかし半藤の歴史認識はそうした「絶対悪」としての人物に責任を帰結させかねない、あるいは「日本の戦死者」というアイコンに虚構の意味づけをしかねないような印象を僕は持った。似たような印象をこれは斜め読みしただけだが青木富貴子『731』にも感じたが、もしかしたらノンフクション作家というのは往々にしてそういう危険性を持っているものなのかもしれない。
 ところで戦争責任というのは誰にあったか。天皇の戦争責任、軍部の戦争責任、そのなかでもトップの戦争責任、文学者、民族(民俗)学者、そういった人々の戦争責任に関する議論は色々あるのをよく見聞きする。多分それぞれの人々にそれぞれの責任はあるのだろう。しかしあまり議論されない対象として「大衆」というものがいるような気がする。僕の今の考えでは、おそらくもっとも重い戦争責任は大衆にある。そう考えるようになったのは大学に入ったあたりのときで、多分大塚英志の影響があったんじゃないかと思うのだけど、具体的にどういう部分が影響したのかはよくわからない。たしか、銃で脅されたんじゃなくてむしろみんな積極的に盛り上がって(祭り)戦争に参加したってことが現状を見るとわかるね、というようなことを大塚がどこかで書いていて、まわりを見回したら確かにみんなウキウキしながら右傾化してて「まったくもって軍備は当然ですよね☆」とか言ってるもんで、ああそうか、という実感があるのだと思う。斎藤美奈子も『モダンガール論』の中で、モダンな女たちが喜々として「皇国の母」になっていく様を切り取っていて、ああ、近代の女たちはこんな風に間違ってしまったのか、という感慨にふけったのは去年のことであるが、「皇国の母」になることで彼女たちは「自己実現」をしようとしたわけであり、それはパンツを売る女子高生やオウムの女性信徒の姿と瓜二つであることは言うまでもないだろう*2
 そういうわけで「一億総懺悔」ということばの意味も最近ようやく理解できるようになって来た。つまり「天王陛下もうしわけありません、私たちがふがいないばっかりに」→「さーて懺悔も済んだことだしさっさと復興してかせがなきゃぁ☆」、ということだ。喉もと過ぎればなんとやら。大衆はなぜ戦争に加担したのか。簡単に言えば強い日本の一員であると思い込むことが手軽な自己実現だったからだろう。『ガンダムSEED DESTENY』でミーア・キャンベルラクス・クラインという虚構(役割とか記号とか何者かになることといってもよい)を手放せなかったのと構造的には大体同じである。
 それでまあ、小泉首相靖国参拝に乗っかっている「大衆」もそれと同じであって、ネットのニュース写真を見ると分かるけど、首相をカメラで撮影しようとしてる人々に「戦没者を悼む」とか「参拝する」とかいう意識はまったくないのは明らかで、さらにニコニコしながら日の丸振ってる彼らの姿はどうしようもなく気持ち悪い。もはやこれは首相の政治的パフォーマンスなどではなく、イベントである。スローガンは「ア・イ・コ・ク・ヘ・イ・ワ」とでもいったところか。8・15、集え靖国、英霊たちが待っている! 国旗はペンライトの代わり。メインゲストは小泉首相ですみたいなね。で、内実としては中国・韓国あたりをくさすのがメインなわけです。首相を支持するコメントをするわけです。戦没者を悼むことばがなかったりするわけです。僕もありませんがね。
 そろそろ目を覚ました方がいいと思うけどね。無理かもしれないけど。最近は物騒になったもので平気で「〜じゃなきゃ日本からでていきゃいい」とか言う人がいるけれど、でなかったらどうなんですかね、ホロコーストでもやるんですかね。迷惑極まりない話です。

*1:なったんだよこれが。ハルハ河戦争の責任も第二次大戦の責任も問われずに!

*2:ここら辺も大塚の影響