猫殺しの話の続き――「生の実感」か「死の実感」か

id:x0000000000さんのところで書かれていた坂東真砂子さんのことに絡めた記事を読んで書いたコメントをそのままこちらにも掲載します。

「社会によって否定された自己から逆照射する」*1というのは「『死』の実感」から「生の実感」が生まれている、というふうに解釈できるように思いました。つまり「社会による否定」は象徴的な「死」を意味しているのではないかということです。

正直なことを言えば僕もまた「死の実感から生の実感へ」、という素朴な評論を支持しているのですが、「家に死期が迫った人が〜*2」という論がノスタルジーであるかどうかは、その論調がノスタルジー的であるかどうかとは別に資料によって裏づけられるべきことではないでしょうか。とはいっても、僕も半分くらいはそのノスタルジー性、ロマン主義性の問題というのはあると思っています*3。昔の習俗なんかをちらちらと見ていると、やはり上手に「死」というものを粉飾したり「ケガレ払い」的に扱っていて、誤魔化しているなあと思うときがけっこうあります。

x0000000000さんがよく言われるような「この現実を見ろ」というのは僕には「この社会によって『死』せめられた状態を見よ」と言っているように聞こえるんですね。考えるに「生の肯定」を引き出すためには、まず「死の現実」に向き合わせる必要があるのではないか、と思うわけです。

そもそもどうしてみんなが「生の肯定」へと動かないのかといえば、その必要がないと思っているからではないかと思うのです。そんなに世の中大変なこともないだろう、現に自分も周りもそれなりの生活をしているよ、むしろ自分が一番不幸だよ、障害者の問題なんか興味ないよ、という「死」の、いや「死せめられている存在の存在しないリアリティ」、これを変えて、「死せめられている存在の存在するリアリティ」を構築していくことが必要なのではないかと思っています。

坂東さんがあれだけの過剰反応(と敢えて言います)を呼び込んだのも我々の「死せめられている存在の存在しないリアリティ」に風穴を開けてしまったからだろうと思うんですね。それを意識的にやったのなら僕は坂東さんを評価することさえできると思う。

そういうわけで、「死を見よ」というのは、「障害者の現実を見よ」という主張と同種のものであるように僕には思われるのですがどうでしょうか。 (2006/09/09 11:38)

*1:「「どんな生でも肯定されてよい」と心から思えなくするような社会こそが、彼らから生の実感を奪っていくのではないか。やはりそこに、障害者運動や、リブの運動の凄みはある。とりわけ、青い芝の会や、田中美津の文章には、あふれんばかりの「生の肯定」を感じることができる。社会によって否定された自己から逆照射するように発する、これほどまでにはないほどの「生の肯定」で満ち溢れていると思う」というTB先の文章に対応しています。

*2:「家に死期が迫った人がいた昔はよかった、などと論じるのは、ノスタルジーであり、悪しきロマン主義だと考える。」という記述に対応しています。

*3:ノスタルジーに関する補足です。何が言いたいかというと、昔の人たちも死が身近にあったとかいいつつ、実はその死の存在を色々な社会習俗・儀礼でもって誤魔化していたでしょうということです。それゆえに昔は良かったというノスタルジーの欺瞞は確かだろうということです。 (2006/09/09 11:41)これはコメント欄にも書いた補足です。