死の隠蔽と死の物語化

 死に対する態度について、隠蔽と物語化に分けられるような気がする。物語化は共同体の装置によって可能になるが(あるいは個人的にも?)、隠蔽は死という現象そのものを消去しようとする。直感的には現代は後者に傾いているような気がするが、果たして。
 もう一つの選択肢は死を全く無意味なものとして受け入れることだが、それが可能な人間がどの程度いるものだろうか。しかしわざわざ「受け入れる」という身振りを意識的に選択せざるを得ないだろう事からいって、やはり死はどうあがいても我々の心に引っかかってくる。