二人の女の子

 桜庭一樹の小説『赤×ピンク』を読んだときにどこかで似たような話をみた気がして、思い当たったのは魚喃キリコのまんが『blue』だった。
 これらの作品の何が共通しているのかというと、二人の女の子の親密な関係が少しの間続き、そして最後にはその関係が失われる、というプロットであること、そして同時にこの関係の終焉が両者にとっての成熟の契機となっていることである。*1そういうわけで最近僕は「女の子が二人」という関係に興味を持っている。
 この関係は要するに片方の女の子にとってもう片方の女の子が<移行対象>の役目を果たしているのだと考えられる。<移行対象>というのは大塚英志の批評によく出てくる概念で*2、精神医学の用語らしい。ひとことでいうと「ライナスの毛布」と同様の役割を果たすモノや人である。つらい現実からの一時的な退避装置として<移行対象>は機能する。そしてやがて<移行対象>は捨てられ、人は現実と向かい合っていく(つまり成熟する)。
 少し前の事件でタリウムを母親に飲ませたという少女がかき集めていたもの、グレアム・ヤングの日記やら化学やら薬品やら死体やら「絶望の世界」といったものも、恐らくは<移行対象>だったのだろうと僕は思っている。そしてそれらは彼女を支えきれなかった。無論、これは<僕>の語る(しかも劣化縮小コピーの)「物語」であって、彼女の「真実」ではない。
 先ほど、「女の子が二人」という関係に興味を持っていると書いたが、より正確には、そうした<移行対象>の関係をうまく機能させることができずに、あるいはそれによって自分を支えきることができずに「失敗」してしまう者たちのことが僕は気にかかっているのだと思う。
 例えば米国の連続殺人犯女性アイリーン・ウォーノスを描いた映画『モンスター』では「二人の女の子」の関係は最初から<失敗>している。その姿がなぜか大塚英志の描いた「宮崎勤」や「酒鬼薔薇聖斗」の姿と重なる。少なくとも「社会化の失敗」という点で彼らは共通している。
俗流若者論」批判においては、「特殊」な例を全体に敷衍させようとするな、というパターンがある。しかしながら、苅谷剛彦編『いまこの国で大人になること』という類の本がそれなりの訴求力を持っているとすれば、<失敗>した者たちと我々「普通」の者たちとの距離はそう遠くはなく、同じ問題を共有しているといえる。
 

*1:桜庭一樹については『赤×ピンク』以外のほとんどの作品においても同様の構造が見られる。しかし『竹田君の恋人』においては成熟の意味合いが薄く、『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』、『推定少女』においては片方の女の子が死ぬか消滅してしまう。

*2:それをいえば「成熟」というのもまた大塚英志のテーマであるが