そもそも現代のいじめというのは実際のところどんなものなの?

 今回の教育基本法改正論議においては、凶悪な少年犯罪や規範意識の低下、フリーター・ニート・ひきこもりなど、様々な恣意的「教育問題」が語られ、あたかも教基法を改正することでそれらの問題を解決することができるかのような言説が改正を後押しした。これらの言説の虚妄を突くことは大切であるが、現代の子供たちが抱えている特徴的な「新しい問題」というものはやはりあるのであって、そうした問題をどう語っていいかわからない不安から、安易で短絡的な言説を生み出してしまっている側面もあるように思われる。
 今後の長期的な教基法問題を見据えるに当たって、現状において子供たちを取り巻いている個別の問題から対応策を議論し、そこで得られた結論から「この問題を解決するには現状の教育はむしろこのように変えられなければならない」という方針を打ち出し、それをもって「その改正案は現実に対応できないよ」という対抗をするべきではないだろうか。むやみに改正反対を叫ぶのではなく、言いえぬ不安を抱いている人々を納得させ、包摂しうるような言説を提示しなければならないように思う。
 そういうわけで、個別の問題点をもっと掘り下げていきたいと思う。そこでまず「いじめ」という問題について考えてみたい。「いじめ」問題は最近流行になっているが*1、いくつかの「いじめ」に関するエントリを読んで気づいたのは、「いじめ」について語られるときにそこでは「いじめ」についての特定のイメージがあるということである。つまり、みんな「いじめというのはこんな感じ」というイメージがまずあって、そのイメージの中の「いじめ」を基にして「メカニズム」や「対策」を語っているように見えるのだ。これでは教基法改正論者と同じような意味で危ない。
 たとえばこんな疑問がある。「いじめ」において「いじめる者」と「いじめられる者」というのは固定的なものなのか? この関係が固定的でなく流動的なものであるとすれば、「いじめる者」と「いじめられる者」が容易に入れ替わるような事態が想定される。そうだとすれば、いじめる者を排除したとしても残された集団内において再びいじめは起きるであろうし、それどころか、それまでは「いじめられる側」だった子供が今度は「いじめる側」に回るということも簡単に起こってしまう。社会学者の土井隆義は現代のいじめは「そうなっている」、と論じている。

現代的な「いじめ」の特徴

 子どもたちは、仲間から「ハズれるのはヤバイ」と感じ、お互い気を遣いあって、自分だけ周囲から浮かないようにつねに心がけています。このような傾向は、昨今のいじめ問題にある特徴をもたらしています。近年のいじめは、以前よりも陰湿化・潜在化して、大人の眼に見えにくくなっているといわれますが、それが見えにくいのは、「優しい関係」の延長線上にあるからです。
 現代のいじめ問題は、かつての差別感情に根ざしたものとは根本的に性質が異なっています。いじめる側にせよ、いじめられる側にせよ、それが個人の属性の問題であるなら、いじめ、いじめられの関係は固定的なものとなるはずです。しかし、小中学校の子どもの世界をよく観察していくと、必ずしもネガティヴな特性をもった生徒だけがいじめられやすいわけではないことが分かります。引っ込み思案がいじめられる一方で、出しゃばりもまたいじめられます。大人から見れば、優等生的なプラスの属性をもったこどももいじめられます。
 このように、いじめ、いじめられの関係は固定的なものではありません。その関係は非常に流動的で、両者の立場は容易に逆転しやすいものです。また、両者の境界線そのものが曖昧で、微妙に揺れ動いていきます。かつて、文部省(現文科相)は、「自分より弱いものに対して一方的に」といじめを定義づけましたが、このような要件はいまは該当しなくなっています。いじめる側の立場も安定したものではありませんし、そのベクトルも一方的なものとはかぎりません。だから、いじめの当事者を特定化することはなかなか難しいのです。個と個の衝突ではないからです。
 現在のいじめは、なんとなく雰囲気に支配された「優しい関係」の産物であり、その意味で昨今の親密圏の特徴に由来する関係性の病です。子どもたちは、自らの存在を安泰なものとするべく関係性のなかでお互いにすくみあい、その反動として、潜在的な集団規範へ過剰に同調せざるをえない状況にあります。ある少女が語るように、「学校では、ほとんど毎日、友達に気を遣ってなくちゃ生きていけない」のが子どもたちの実情です。この過同調への脅迫的な圧力こそが、現在のいじめの流動性を生み出しているのです。
 したがって、いじめの流動性にはもう一つの側面もあります。遊びや悪ふざけと、いじめとの境界線がはっきりとしないという意味での流動性です。
外部から見ている限り、どこまでが遊びで、どこからがいじめなのか、なかなか見当がつきにくいのです。ときには、いじめられる側もまたその行為を楽しんでいるかのように見えることさえあります。かつて東京都中野区富士見中学校の少年が自殺した事件の訴訟で、一審と二審の判断が分かれたのも、屈辱的な仕打ちを受けても「むしろおどけた振る舞いで応じたり、にやにや笑いを浮かべてこれを甘受していた」とされる彼の態度の評価をめぐってでした。
 昨今のいじめは、アクティング・アウトな動作として面と向かっておこなわれることは少なくなっています。むしろ、本人のいないところでこっそり持ち物を隠すなど、精神科医の吉田のいうサイレント・コミュニケーションとしておこなわれることのほうが多くなっています。なぜなら、すでに見てきたように、彼らにとって友達関係は非常な重荷であり、同時に不安材料でもあるからです。摩擦を含んだ「気まずい」人間関係は避けたいからです。
 お互いの対立点が顕在化してしまうことは、過剰なほどの配慮によって表面的に馴れ合っているだけの「優しい関係」にとって大きな脅威です。人間関係の軋轢は、非常に耐えがたいものと感じられます。だから、摩擦を表面化させかねない危ういメッセージは、サイレント・コミュニケーションのチャンネルへと追いやられていくのです。相手にいくら違和感を覚えても、面と向かって怒りを示すことはできず、したがって取っ組み合いの喧嘩のようにアクティング・アウトな行為を通じてその違和感が解消されることもなく、迂回したチャンネルでサイレンとなさや当てが展開されていくのです。大人たちから見ていじめが陰湿に見えるのはそのためです。
 こうして、子どもたちは、いじめて笑い、いじめられて笑うという独特の作法を身につけます。傍観者の子どもたちもまた、それを見て笑います。「知って知らぬふり」というのは、ほかならぬ儀礼的な無関心です。いじめの当事者たちも、その傍観者たちも、違和感などまるで存在しないかのように、協力して演じあっているのです。そして、お互いに「遊びモード」に乗りきり、いわば軽い人間関係を演出することで、軋轢の重さから逃げようとしているのです。いじめと遊びの区別がつきにくいのは、よくいわれるように罪悪感の欠如によって両者が混同されているからではなく、むしろ意図的に「遊び」というラップでいじめを包んでいるからなのです。
 富士見中学校の自殺した少年がいじめられてもにやにや笑っていたというのは、二審判決が述べたように、「拒否的態度を示した場合に予想される、より激しいいじめを回避するための迎合的な対応」でもなければ、まして一審判決が述べたように、「悪ふざけの対象としてクラスの注目を浴びることに対する面はゆさを感じた」わけでもないでしょう。彼は、「遊びのモード」のなかで自分を茶化してみせることで、関係の軋みが顕在化するのを必死に避けようとしていたのではないでしょうか。静かなる秩序空間を傷つけまいと懸命にもがいていたのではないでしょうか。
 しかし、いじめる側にいる子どもたちも、いじめられる側にいる子どもたちも、その関係性から抜け出すことはよういではありません。すでに見たように、親密圏の引力が強すぎるために、その関係の外部に意味ある他者を見出す余裕がないからです。いじめが密室化するのはそのためです。学校でおこなわれているはずのいじめが教師の眼にも見えにくいのは、それが「遊び」というラップに包まれているからだけではなく、子どもにとって教師がもはや意味ある他者とは映っていないからでもあるのです。
 子どもたちの日常世界は、お互いに交信不能に陥っている多数のせまい小宇宙から構成されています。そのため、個々の仲良しグループが抱える問題を学校という公共圏へと開いていくチャンネルを持ちえません。教師という役割主体を媒介とした全体を見通すような視座を持ち合わせていないため、全体の共同性へと統合されないまま、それぞれの小宇宙がお互いに交信不能な状態で併存しているだけなのです。
「班が異なれば、県が異なるみたいだし、学級が異なれば、国が異なるみたい」というある中学生の言葉は、まさに言いえて妙です。いったんあるグループに入ると別のグループへ移るのはきわめて難しく、しかもその内部で作り上げられた関係も、対立が顕在化してしまうと維持が困難だと感じられていますから、いつもお互いに気が気でありません。こうして、閉じられた親密圏の内部で、それぞれの関係が煮詰まっていくことになるのです。(土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波書店

あー、疲れた。

*1:「いじめ」問題というのは一時期メディアでクローズアップされたがその後は不登校問題にその座を譲っていたと思う。