『鋼の錬金術師』のエルリック兄弟はなぜ身体を失っているのかを考えるために

 Apemanさんがご自身のブログの中で、「この国は被害者が叩かれやすいのではないか」ということを述べておられる。
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20061130210135/index.html

日本が「殺人事件が少ない代わりに自殺が多い社会」であるのは、被害者が自罰に走ってしまう傾向があるからではないか、と何度かここで書いた記憶があります。それはなぜかと考えると、一つには「犠牲者非難」が起きやすい社会だからじゃないか、と思うんですね。「苛められる方にも責任がある」というやつです。もしこの想定が正しければ、「復讐しろ」という主張はモラル保守のマッチポンプですね。

 僕はこの見解はかなり的を得ているのではないかと思う。では、なぜこの国では「被害者」が叩かれやすいのか。それは「被害者」であることが、「自己実現の物語を発動させやすい性質を持つ」ということを意味するからだ。このことについてはid:inumashさんのエントリ別に身体部位が「欠如」している必要はない。〜「人造人間」は「出来損ないの僕」を代弁するか〜も参考になる。以下、欠損と自己実現ということについて少しだけ書いてみよう。
「被害者」であるということは一つの「欠損状態」である。そして「欠損状態」であるということは即「欠損状態」が回復した状態もある、ということを意味する。そのようにして、「被害者」の「欠損状態」は「『欠損状態』を解消する物語」を発動させるのである。 
 そしてここに一つの巧妙な仕掛けがある。「欠損状態」を単なる陰性の特徴としてではなく、むしろ物語を発動させる原動力にして自己実現を成し遂げた者は、欠損のない通常の人々よりもその地位を上昇させることができるという物語論上の法則があるのだ。具体例として、乙武洋匡五体不満足』、井上美由紀『生きてます、十五歳』、大平光代『だから、あなたも生きぬいて』、飯島愛プラトニック・セックス』、武田真弓『ファイト』などがあげられるだろう。リストカット少女たちが自身の傷をネットにさらしてみせるのも、腕に刻まれた傷=身体的欠損によって自己の存在証明としての物語を発動させることができることを無意識のうちに知っているからだと思われる。
 そしてそのような欠損者たちの自己実現と対立する秩序がある。それは「ムラ原理」である。ムラ原理はその共同体の中に突出した人物が存在することを好まない。まさしく「出る杭は打たれる」のである。ムラ原理はその共同体における平均的な役割分担メンバーの再生産を望んでいる。「欠損者」の自己実現物語はそうした「再生産」の秩序に「外部の価値観」を持ち込み、ムラの秩序を破壊してしまうものとして捉えられる。だからムラ原理は「欠損者」をムラの秩序における物語の中に領有し、そのイメージを常に「負の存在」として位置づけておこうとする。
「欠損者」はムラの秩序、ムラの物語に領有されている限り「負の存在」であり、劣った者である。「欠損者」がそうしたマイナスイメージを振り払うためには、「ムラの外部の秩序」によってムラの秩序を逆転させるほかはない。そのことは結局ムラの秩序の破壊(その根拠のなさの暴露、あるいは「ムラの外に幸福がある」という声)を生み出してしまう。それがムラ原理の敵意を引き出さないはずがない。かくして、「被害者」が自己実現の物語を発動させ、自分たちのムラ秩序を揺るがしてしまわぬように、「被害者」の物語を封じ、「被害者」がその被害の根拠を自分の外部に見出さないように、その「悪」をもともとムラ秩序の中にあった物語のバリエーションとして定着させようとする。現代では呪いとか祟りと言っても通用しないので、あらかじめマイナスのイメージを付与されたグループとの結びつけ(日教組、左翼、戦後民主主義共産主義)や、その人物の内面(心理学化する社会)、生物学的要因(汎脳主義、ゲーム脳)などが自己実現阻止・ムラ秩序維持ツールとして流用されているのだと考えられる。
「被害者」とはなにか、という問題は一筋縄ではいかない。我々が「被害者」と指差すとき、それがどのような意味での「被害者」なのかをよく考える必要があるだろう。

(うそっこの)参考文献

新装 ぼくを探しに

新装 ぼくを探しに

人身御供論 通過儀礼としての殺人 (角川文庫)

人身御供論 通過儀礼としての殺人 (角川文庫)

鋼の錬金術師(1) (ガンガンコミックス)

鋼の錬金術師(1) (ガンガンコミックス)

どろろ(1) (手塚治虫漫画全集)

どろろ(1) (手塚治虫漫画全集)