職業指導運動の始まり

 若年層に対する職業指導運動はいつどのようにしてはじまったのだろうか。
 組織的職業指導の論理的・歴史的前提としては〈職業選択の自由〉、〈資本主義の成立〉があげられる。しかしながら、実際に職業指導運動が展開されるには20C初頭まで待たなければならなかった。

アメリカの職業指導運動

 職業指導運動の典型的な展開の仕方としてはアメリカの動向が参考になる。職業指導運動は最初は学校外で始まったものだった。

1901年:ブルームフィールドがボストン市(マサチューセッツ)でシヴィックサーヴィスハウス(以下CSH)を組織した。ブルームフィールドはニューヨークのゲットー出身者ながら大学セトルメント教室に入り、ハーバード大学を卒業している。
1908年:フランク・パーソンズCSH内にヴォケイショナルブラウ・オブ・ボストン(以下VBOB)を開設。世界初の専門機関となった。
1908年5月:VBOBは「活動報告書」を提出。ヴォケイショナルガイダンスの用語が初めて使用される。同年9月にパーソンズが死去。ブルームフィールドが後を引きつぎ、09年、独立機関(ヴォケショナルブラウ)が設立される。
1909年:ボストン市教育委員会は市立学校で行なうべき職業指導の計画立案を職業局に依属、指導が10年から実施される。これは新設工業高校の入学者の合理的選抜方法を得るためのものであった。
1910年;職業局がハーバード大に移管される。
◆ブルームフィールドらの積極的尽力もあり、1910年以降学校教育の中に職業指導は急速に普及した。米国においては早くから職業指導は学校教育の中に織り込まれ、生徒の一般指導の中核として重要な地位を占めるに至った。またイギリス、ドイツ、フランスでも、同時期に同じような動きが生まれた。

職業指導運動の背景

(1)なぜ、19Cではなく、20C初頭に起こったのか。
 これは経済構造の変化によるところが大きい。19C資本主義においては、産業循環による失業は一時的なものであるとされ、国は基本的に失業問題を放置していた。
 19C末20C初頭、資本主義は自由主義段階から独占段階に移行する。(1873年恐慌〜1896年=グレートディプレッションを画期に移行が開始され、1900〜03年恐慌で移行が完了した)。これによって産業循環が変形し、不況が長期化、「失業問題」が発生するようになった。

◇イギリスにおける展開
 1850〜70年代初期はヴィクトリア中期の「黄金時代」であった。
 しかし、その後チャールズ・ブースの「ロンドン調査」が行なわれ、89〜1903年に発表された調査結果によって、イギリス人口の3分の1が貧困線あるいはそれ以下の生活であることが明らかとなった。

◇イギリスにおける19C末から20C初頭にかけての「救貧法」=救貧行政の転換
1834年「新救貧法」:貧困は個人の道徳的責任、被保護者低位性の原則。救済機関として「労役所」があった。
1905年 王立救貧法委員会組織。1909年報告書が提出。多数派の意見は従来の延長線上での改良を主張。少数派は「救貧法の解体」を主張した。しかしながら、両者は有能貧民に対する職業紹介、児童労働の制限、職業訓練等では一致していた。
1909年 職業紹介は救貧行政から分離した。また職業紹介所の若干に青少年部が設けられ、少年職業紹介が行なわれた。
1910年 エジュケイション・アクトによって地方教育局に年少者のための職業紹介部が設置される。