おたく的なものと女性化願望

 森岡正博さんの『感じない男』には、「自分が少女の体に乗り移りたい」という願望が記されている。私は大学時代、(たぶん森岡さんの話を知らなかった時だとと思うが)研究室の人間に、「自分には女性になりたいという願望があるんじゃないかと思う。そして素敵な男性に抱きしめてもらいたいと思っているような気がする」ということを漏らしていた。森岡さんの本を読んでやっぱりそうなんだ、と思い、同時に自分の中にある母親との葛藤までがその願望に関与している可能性まで明瞭に指摘されてしまった。
 ところで、以前ネット上の考察の中で、おたくというのは「いつか馬車に乗った王女様が自分を迎えに来てくれる」という願望を持った存在だというのがあった。これはいわゆる女性のシンデレラ願望「いつか白馬に乗った王子様が私を迎えにきてくれる」の逆バージョンであるが、これは精神的に女性化された男性だということもできるかもしれない。
 斎藤環さんが本にもした「戦闘美少女」について考えると、こちらは局所的に男性化された女性である。局所的に、というのは、戦闘能力以外の点について、戦闘美少女はいわゆる「少女らしい」可憐さとかいじらしさとかを失ってはならないからである。
 そして、女性化願望を持つ男性と、戦闘美少女との関係というのは、相補的な一体物の関係にあるのではないかと思う。戦闘美少女が戦闘をする=男性であるのはそれが男性が乗り移る対象として想定されているからだ。主体的自立を得るためには自立を証明するための戦闘ができなければならない。そして戦闘美少女に比して、あまりにもさえない、ぱっとしない男性主人公が少女を肯定するのは、女の子をはべらせたいのではなく、戦闘美少女として立派に戦った自分自身を自分自身によって肯定することなのだと思う*1 *2
 ここら辺で私は宮崎駿のことを考える。つまり彼と母親との葛藤のことを、である。彼は、自分を母親に認めてほしいと思っているように見える。では、彼はマザコンなのだろうか。どうも違うように思う。というのは、森岡さんの図式で考えると、宮崎は、そして私たちは、幼児として母親にすがりたいのではない。むしろ母から決別し、母から自立したいと思っている。それは、自立した存在としての自分を母に認めてほしい、ということになろうか。しかしそうした欲求もまた、マザコンなのではないか、という疑問も私の中にはあるし、逆に母なるものを否定しようとすることが不健全なようにも感じることがある。それに、母から認められたいか、母から完全に決別して自足したいかということには個人差があるかもしれない。

*1:だからセカイ系で、キミとボクしかいないというのは間違いで、キミはボクの鏡像なのであって、相補的同一物だと考えなければならない。

*2:ちなみにセカイ系で社会が描かれないのはもはや社会の中における戦いのリアリティがないからだろう。そこに成熟のモデルはないというところがたぶん重要だと思う。自分を肯定するために邪魔なファクターが社会の中には多いというのもあるかもしれない。