魚喃キリコと成熟
- 作者: 魚喃キリコ
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 2007/04/24
- メディア: コミック
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このような、2人の少女がある期間親密な関係を持ち、その関係が終わるというプロットと、少女の成熟が相関しているというタイプの物語群が存在する。このようなタイプの物語は通過儀礼のバリエーションの一つとひとまずは言うことができるだろう。2人の関係が結ばれる前→親密な期間→関係の終わり、という形態は、文化人類学における通過儀礼の定説である分離→移行→再統合の状態変化に対応していると考えられる。*1
ところでまた、このようなタイプの物語は、移行対象をめぐる物語とも言うことができる。つまり、2人の少女はお互いがお互いにとって「ライナスの毛布」であって、つらい現実に立ち向かうために必要とされる緩衝材的愛着物であるということである。だから、少女たちの関係は、しかるべき期間が経過した後、すみやかに終了しなければならない。その意味で、2人の少女の関係がいかに同性愛的に見えようとも、その関係が終わることを前提として物語が構成されている以上、現実の同性愛をめぐる真実といった観念からは距離を置いた分析が必要となる*2。
一つ重要な点を押さえておかなければならない。それは彼女たちが物語の開始時点で受験生であり、進路選択を迫られているという点である。高校という事実上義務教育化している教育課程を終えて、自分なりの成熟を達成しなければならない圧力にさらされている。もともと成熟は自分なりのものではなくて、周りが用意してくれるはずのものだったのだが、これは現代の物語だからそのようなシステムはうまく働いていない。そのシステムのほころびの露呈する特異点として、物語内の時期が設定されている。
物語内で結ばれる2人の関係は、だからそのようなシステムの不全の象徴的発現として捉えられる。上述したように、この関係は形態上、終わることが運命付けられており、その関係の継続は悪しきものとして位置付けられる。どのような意味で悪しきものなのかというと、それは自己閉塞的であるという意味においてだと思われる。互いが互いの鏡像である関係は鏡像としての投影による自己の安定を得ることができるが、それは社会的な水準における位置づけを伴わないため、きわめて狭い範囲の特異的空間――学校とその周辺――でしか成立することができない。この特異な閉塞は決してよい結果をもたらさないだろうと予測されるのだが、その具体的な考察はまた機会を改めて行うことにしよう。