他者の感覚と成熟

 さて、樹村みのりの『晴れの日・雨の日・曇りの日』を論じる過程で、二人の少女の間にあるずれが、『blue』や本作で見られるようなタイプの物語における通過儀礼の重要な要素であることに触れた。
 さとこは、足の不自由な少女である尚美との交流を続けるにつれて、「自分とは異なる存在」としての尚美を、段階的にその理解の仕方を変化させながら経験していく。
 最初に、さとこは、自分と違って早く走ることができない足の不自由な存在、という非コミュニケーション的あるいは外面的な事柄によって、尚美との差異を理解する。さとこは、尚美が足のことを気にしているのではないかと思って気遣う振る舞いをするが、しかし尚美はそのことを気にしてはいないように振る舞い、早く走る人を見るのが好きだとさえ言う。その尚美の言葉をさとこは素直に受け入れるのだが、これで事態は収束しない。
 ある雨の日に、広場に水がたまり、少し高くなっていて水から出ている場所を尚美は海の中の島みたいだと表現する。そして次のように吐露する。

時どき一人で無人島みたいなところへ行きたいって思うことあるわわたし

ふうん

だれもいないところへ行きたいわ/学校も家の人も呼びに来ないところ

 これに対して、さとこは、自分の感じていることと尚美の感じていることとの隔絶に悲しみを感じる。別の言い方をすれば、さとこは他者との隔絶を学んでいる。

だれもいないところへ行きたいなんて……
友達から聞くとなんてさみしくなる言葉なんでしょう

考えてみたこともありませんでした
わたしにとって尚美ちゃんといることは楽しいことなのに
尚美ちゃんにとってそうではないなんて……

 すでに述べたように、本作のようなタイプの物語において、片方の少女はもう片方の少女にとって鏡像であり、自己イメージの投影対象である。同じ小学校の同じ6年生で、同じ場所で同じ遊びをする、同じ時空を共有する者同士なのである。しかし、それが単なる同質性への志向ではないというところが通過儀礼としての重要なポイントとなる。ここにおける自己イメージの投影は、むしろ同質性の裂け目、ずれをその駆動力としている。引用した部分は、その裂け目の露呈となっている。しかし、ここではまだ、その裂け目を感じるだけにとどまっており、その裂け目を媒介に自己を組み替える段階までは進んでいない。通過儀礼の進行上、露呈した裂け目は新たな自己の枠組みへと回収されなければならないということである。*1
 そのような自己の組み換えへの経験のフィードバックがやがて行われることになる。さとこと尚美が他の子供たちの遊びに混ざったとき、尚美の足の遅いことで他の子供たちが嫌味を言う場面で、尚美はそれを聞いていたのだが、聞いていないふりをして、今度は自分抜きでやるように言う。それに対して他の子供たちはあわてて取り繕うようなことを言うのだが、さとこは気分を害して遊びから抜けてしまう。それに対して尚美はさとこちゃんはやめなくてもよかったと言う。
 さとこは、こうした尚美の振る舞いについて、自分よりもずっと大人だと感じ、しかしそれによって尚美の本当の気持ちが分からないと感じる。それでも、本人が気にしていないように振舞っているのだから、そうなのだろうという考えでいる。
 しかし、その後一緒に広場で遊んでいるときに、尚美が発した一言によって、本当は尚美が足のことを気にしていたのだということをさとこは察する。

ね さとこちゃん
わたしこの広場で走るのだったら
この間の子たちより早く走れると思うわ

平気じゃないんだ
平気だったんじゃないんだ
足のこと気にしていないんじゃなかったんだ
バカみたい
バカみたい わたし

 ここでさとこが自分のことをバカみたいと言っているのは、後で以下のような意味として独白される。

わからないことはたくさんたくさんあるのでした
そしてわたしはわかろうとしなかった自分に腹を立てていたのでした

 すでに述べたように、さとこは尚美との関係の中で、裂け目を感じてはいたのだが、それを掘り下げるということはなかった。しかし、尚美の言葉と実際の内面とのずれ、つまり、自分と相手とのずれ以上に、相手の内部に存在するずれを理解することで、さとこは単なる同質性の共有から大きな一歩を踏み出す。この時点で、移行対象という側面から見ると、尚美がその役割を終えつつあるということが指摘できるだろう。さとこにって、自分の鏡像である存在から、自分にはわからないこともある他者として尚美の存在は変化を遂げている。*2
 このように、さとこの通過儀礼は他者との同質性の中に出現する裂け目を通して、自分の認識枠組みを組み替えていくという過程である。つまり、他者についての認識の変化が一つの成熟として遂行されるのである。
 さて、まだ残された問題はある。それは移行対象を捨て去る、ということの理解である。移行対象の意味合いから言うなら、一人で現実に向かい合って行けるようになる、ということなのだが、しかしそれはどのようにして実現され、何をもたらすのか。機会を改めて考察することにしよう。

自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ

自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ

*1:浅野智彦は、『自己への物語論的接近――家族療法から社会学へ』の中で、精神療法のナラティブ・セラピーの内容を解説しているが、ナラティブ・セラピーの理論的立場の一つである脱構築的アプローチの解説において登場する「ユニークな結果」と呼ばれる概念は、ここで私が言うところの「裂け目」に近いのではないかと思われる。「ユニークな結果」とは、その人の自己を構成する自己物語の中で、物語全体の筋からはずれたような浮き上がった部分、整合性の取れない要素のことを言う。脱構築的アプローチによるセラピーはこのユニークな結果をてこにして、その人の自己物語を書き換えてよりよいものにすることで精神的な問題の解決を図ろうとする。私がここで論じている裂け目も、自分の既存の枠組み(=尚美ちゃんもわたしはいっしょにいて楽しいという自己物語)が書き換えを迫られるような要素として、「ユニークな結果」と同様の役割を果たしていると考えられる。また、これは浅野自身の用語で言えば、自己物語の内部に現われかつ隠蔽される要素としての「語り得ないもの」と同義であると考えられる。

*2:移行対象は捨て去るという点が重要であることは確かだ。しかし、その前提としてひとまずは一体化できなくてはならないのであり、だから同質性を一概に否定するのは間違いである。むしろそうした同質性こそが裂け目を導入し、さらなる発展を遂行するための足場となっているのではないだろうか。また、さとこの物語は「寛容」をめぐる話としてみることも可能であるが、そのような物語が普遍的な形態に基づいていることは、「寛容」がしばしば多様性を根拠にすえることとの対比として興味深い。