自己肯定と自国愛について・その2

 前回の「自己肯定愛と自国愛について」に対していくつか反応をもらったのでもう少し書いてみる。
 コメント欄にも書いたが、「自分に優しくしてもらえなかった人は他人にも優しくできない」という言説については僕も何人かの方と同様疑問を持っている。しかしそれに対する違和感、ちょっと違うぞ、という声を拾うために敢えてその言説を使っているのである、ということを表明しておく。
 id:kurotokageさんからご指摘いただいたとおり、上記の言説は「ネット右翼・バックラッシャーは低階層」説にも繋がるものである。この説が実証的に裏づけられているかどうかは僕はわからないのだが、バックラッシャーの主要層は確か従来の高年齢保守層なのではなかったか。
「低階層」であるということと「優しくされなかった」というのはそう簡単に一致するものだろうかということがある。社会的位置づけとして「低階層」であっても、個人的経験として充分優しくされたということもあるかもしれない。
 そうして整理するとだいたい問題となる点は以下の四つになりそうだ。

1・「低階層」であることと「優しくされなかった」ことは同じなのか。

2.「自分に優しくしてもらえなかった人は他人にも優しくできない」は本当か。

3.「低階層」が「ネット右翼・バックラッシャー」になるというのは本当か。

4.(低階層とは違う意味で)「人から優しくされなかった」人は「ネット右翼・バックラッシャー」になるのだろうか。

自国愛は未成熟か

 さて、もう一つは未成熟女教師さんのようなメンタリティについて。これは正直に言って僕には分からない。自分の帰属対象があって、それがけなされると怒るという心情については理解できる。けれどもそれが「国家」であったり「長野」であるというのはよくわからない。「国家」と「長野」ではまた質が違うという気もする。
 それが未成熟であるかどうかはともかく、「国家」や「長野」という対象への帰属意識というものがいったいどういうものなのか、ということをもっと詳しく聞いてみないと分からないと思う。

自己否定と自己愛

 再びid:kmizusawaさんのブクマコメントをネタにちょっと書いてみる。

自己否定とは自己愛の裏返しではないかなと思っています。

 のざりんさんの記事で「「もう自分なんて生きている価値がないから、人工呼吸器をつけないでくれ/外してくれ」と願うALS患者の声」が「自己否定」としてあげられているのだが、それに対して「自己愛の裏返し」というコメントは正直ちょっとまずいのではと思ってしまった。
 それでちょっと思ったのだが、「自己否定」ということばの意味についてもう少し腑分けして考えた方がいいかもしれない。

非常に厳しい状況に置かれた場合の「自己否定」

「人工呼吸器をはずしてくれ」と願うALS患者の「自己否定」は「自己愛」の裏返しなのだろうか。それが「自分は役に立たない、お荷物の存在でその状態にとどまるのはつらい」というものであったとすると、「社会から否定される自分」という「恥ずかしい自己」を消したい、という意味では「自己愛」といえるだろうか。しかしたとえそこに「自己愛」の存在を垣間見ることができるのだとしても、それは「自己愛」ゆえに「自己否定」している、と短絡的にいうことはできない。この場合「自己愛」は「自己否定」に関わるファクターのうちのほんの一部分でしかない。「自己愛」を「自己否定」の直接的要因であるとしてしまうと、どうしてその人が「自己否定」に至ったのか、という重要な社会問題が捨象されてしまう危険性が大きい。またそもそも常識的にいって不謹慎であろう。

目標達成のための「自己否定」

 これは恐らく健全な「自己否定」とでもいえると思う。いまの自分に完全に満足して(あるいは変化を恐れて)しまっていたらなにも成長できないし、周りにとっても迷惑である。「自己愛」の面もあるだろうが、既定の自己に偏執的にとどまろうとするのではなく、むしろ「理想の自己」に近づく自己の変革に喜びを感じるタイプの「自己否定」である。

「本当の私」を求める「自己否定」

 恐らくもっとも「自己愛」の裏返しとしての性質が強いのがこのタイプである。目標達成のための「自己否定」と似ているが、実際には自己の変革には消極的であり、「いまのままの私」でありながら同時に承認と賞賛を得ることのできる「本当の私」がどこかに転がっていると思い込む。一見「自己否定」に見える振舞いをするが、それは「自分はもっと高貴な家の生まれなんだ」という血統妄想と同じで、「本当の私はこんなものではなくて、もっとすごい力があるはず、秘められた能力を開花させることのできる場所があるはず」ということを意味しているに過ぎず、「自己否定」というよりは「誇大自己」、「現実逃避としての自己防衛」という側面が強い。

「自分のようなものはダメだ」

ただ「自分のような者はダメだ」というのは自分と同じような状況の誰かにもダメだと言ってるのと同じではないかとこのごろ思う。

 この傾向が強くなると、俺もダメだがお前らも同じだ、というふうにすべてを「ダメ」の磁場に引き下ろすようになる。自分の状況を否定することが同じ状況の人に対してもダメだと言っていることになるというのは避けられないと思うが、意識的に他人も自分のダメさにつき合わせ、しかもそこから出ようとしないとなるとかなり迷惑になってくる気がする。「本当の私」でも探してるほうがまだマシかもしれん。