「人を殺す」ことと「他者の死」

 そういえば、死者との関連で思い出した。「弱さを克服したくて人を殺した」少年の殺人についてid:mojimojiさんとやり取りしたときに、「他者の死によって〜は妄想に過ぎない」というようなことをmojimojiさんは言っていたが*1、その批判はいささか問題点を見誤っているように思える。なぜならそこには少年が“他者の死によって”何事かをなせると思っている、という暗黙の前提があるからだ。僕は少年が殺した相手の死に何かしら意味を見出していたとは思わない。むしろ少年にとって意味があったのは「人を殺す」という行為そのものだったのではないか、と思う。当然そこには「他者の死」が付随するがしかし、「他者の死」にまで少年の考えが及んでいたかには僕は懐疑的である。「殺す」という行為に重点があるのと、「他者の死」に重点があるのとでは意味がまったく異なると僕は考える。それは「殺人者」という存在に対して社会がどのような立場を与えるかということとも関わってくる問題だ。もしも僕たちが生きる社会の中で、「殺人」という行為に何かしらの意味づけが与えられているのなら、まさにただ「殺す」ことによって、何らかの社会的機能が発動しうるのではないか。それを少年が意識していたかいなかったかという議論に意味はない。ただ、もしかしたら見えにくいかもしれないそうした事柄に注意を向ける視線もあっていいだろうとは思う。社会的・文化的な構造がすべてを決定するなどとは言わないが、僕はどうしても少年個人の資質よりも*2少年を殺人に向かわせたものに注意を向けずにはいられないのである。

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*1:要するに他人の死が自分にとって何か意味を持っているということはない、ということでいいのだったろうか。

*2:そもそも個人的資質をどうこう言えるほど僕は彼のことを知らない。