本が150冊ほど撤去されたと言う話、の根っこにあるもの

 ようやくパソコンが復帰したと思ったら、ネット接続の調子がいまひとつでちょっと萎えております。そのためリンクとかもしにくくてめんどうなので省きます。
 さて、例のフェミ系の本が撤去された話ですが、やっぱりこれも公共性の問題なのかなと思います。成城トランスカレッジのchikiさんもちらっと言及しておられますが、日本社会における公共性についてはもう少し突き詰めてみる必要があるだろうな、というのが大塚英志の影響を受けて最近考えるところです。
 この間読んだ広田照幸の『《愛国心》のゆくえ』でも触れられていましたが、戦後の日本はアメリカ占領下、また東西冷戦構造における西側陣営という国際的にはかなり限定的である意味「安定」したポジションの中で、国内政治における類型的対立に終始した言説環境が作られてきました。右翼も左翼も、一国主義的に閉じた枠組みの中に安住し、他者(たとえば在日韓国・挑戦人の人たち)と対話する努力というものはまったく行なわれてきませんでした。なおかつ、戦前戦中への反省から「公」が「私」領域に介入することに対して非常な警戒感が戦後日本にはありました。しかし、それもただ「公」に過剰に反発するばかりで、「私」同士のコミュニケーションからパブリックな共同性を創出しようとする動きはなかったのではないかと思われます。
 ところが、冷戦構造の崩壊、さまざまな政治的・社会的境界線を揺るがすグローバリゼーションの波によって、もはや日本は従来の国際政治のフレームの中に安易にポジションを定めることができなくなりました。かといって主体的な立場をいままでしっかりと組み立ててこなかった日本がすぐにそんな状況に対応できるわけがありません。結果として占領政策以降すっかり「おせわになっている」アメリカにあたふたと追従する形となりました。また国内においては自身の言説を成り立たせていた一国主義的政治体制の崩壊とともに左翼言説は自滅的に衰退し、情緒的訴求力において勝っている右翼言説が不透明な社会情勢とも相まって、耐用年数が尽きたにもかかわらず延命し、一気に大衆化した、というのが現在の状況であるように思います。そこには擬似的ではありますが、かなり国家主義寄りの「公共性」が構築されようとしています。
 結局、左翼的な物言いがいまどきまったく意味がないように感じるのは、その言説が成り立つ言語空間(公共空間)を喪失したからであると言えます。大塚英志が現在を「セカンドチャンスとしての近代」と呼ぶのは、日本は明治期の近代化および戦後の政治体制の中で、「他者と生きていく公共空間」の創出に失敗してできたものとは異なった、新たな公共空間をつくる時期にあるからだ、という認識があるからだと思います。具体的にはそれは他者と粘り強く交渉していくための言語技術を大衆化する、というところにあると思います。大塚英志はそうした言語技術の大衆化運動を初期日本近代文学、初期柳田民俗学に見出せるとしており、その対立思潮として社会ダーウィニズム、現在の新自由主義があると言います。僕が最近読んでいるマックス・ヴェーバーも、誤読かもしれませんが対社会ダーウィニズム構想としての側面が読み取れるような気がしています*1
 端的に言って、これは情報処理技術の問題です。雑多で主観的な情報を他者と共有可能な形に体系化し、言語化し、すり合わせるという一連の情報処理プロセスの習得が必要です。このとき、現在の状況の中で特に強調しておきたいのは、まず「こうしたい」というものがなくてはならないということです。つまり「理想」や「理念」が必要です。理想のためなら何をやってもかまわないような心情倫理家はヴェーバーさんに蹴っ飛ばしていただくとして*2、最近流行の「偽善」を撃つというスタンス、これはやはりだめです。一見、「偽善」を撃つというのは正しいことのように思えます。ところが一歩引いてみたときに、それは結局時局の「空気」を読んでそこに追従するという構図にしかなっていません。「偽善」を撃つのは「偽善」なんかに誤魔化されたくない、踊らされたくないという思いがあるのかもしれませんが、時局に踊らされているようにしか見えないので、そのあたりに「偽善」アレルギーの人たちは自覚的になってもらいたいと思います。また、「偽善」を撃つ人たちに特徴的なこととして、否定的な感情が先にある、ということがあげられます。彼らは自分の「理想」や「理念」に反しているから批判するのではなく、相手が「理想」や「理念」を持っているから批判するのです。彼らには、自分の境遇がこうであってほしい、自分の住む社会がこうであってほしい、世界がこうであってほしい、という具体的な「理想」、といって大きすぎれば「希望」を主体的に述べることを極端に避ける傾向にあります。これは香山リカが最近指摘している他責的なうつ病患者の増加とも関係していると思いますが、自分の「理想」や「希望」を言うことによって、そこに主体的な責任が生じることが、彼らが最も怯えることのようです。僕はこのような人たちを「ネット右翼」と仮に定義しています。ですから僕の定義によれば、別に嫌韓・嫌中的なことをことさら言ったり、下品な誹謗中傷を連発しなくても、主体的に自分の希望を述べることを忌避し、常にメタな立場のみを希望し、「偽善」を極端に排撃する傾向にある人は「ネット右翼」ということになります。*3彼らは「偽善」を打つことは得意ですが、大塚英志も指摘するように、じゃあお前の善ってなに、と言われたら何もない人達です。苦し紛れに「偽善を撃つことが善だ」とか言うかもしれませんが、結局誰か適当な他者を「敵」として設定して攻撃することでしか彼らの立場は成立しないわけです。僕が仲正昌樹氏をネット右翼と定義するのはそのような理由からです。他にもメタ・ウォッチャーと称する人々、また主に20代の若い団塊ジュニア世代あたりの人達にそうしたネット右翼的傾向が強いように思います。*4
 そうした非主体的で内輪的な言語技術は日本という国が国際社会の中で使ってきたことばとよく似ています。しかし既に述べたように時代は変わりました。あらゆる場面において「しょー・ざ・ふらっぐ!」(笑)が要求されるようになって来ています。その中で、ひたすら「空気」を読む言語技術がどこまで通用するのかは疑問です。というわけで、改めて考えてみてはどうでしょうか、あなたはこの社会に何を望みますか、その望みはあなたの身の回りの人達にとってはどのようなものですか、と。

*1:行過ぎた自然主義への批判や、歴史的文化形成を法則化することへの批判、異なる価値観の人たち全員が納得できるようなことばの技術としての社会科学という考えなど。『職業としての学問』、『社会科学と社会政策にかかわる認識の客観性』

*2:責任倫理家」と「心情倫理家」については『職業としての政治』を参照のこと。

*3:ちなみに、相手の言っていることに「裏」がないかどうかを過剰に警戒し、人物像がまずわからないと、相手は自分を貶めようとしているのではないかというような気持ちが先立って生産的な議論ができない、という特徴もあります。つまりネット右翼にとって、周りの人間は常に自分をだまして貶めるかもしれない存在として認識される傾向があるように思います。「自我の脆弱性」というのが、あまりに簡単な説明とはいえ、彼らを説明することばとしてはいまのところ最も適当かもしれません。俗流「若者論」批判の文脈でなされた浅野智彦氏の調査では、「調査からは、若者についてよく指摘される傾向は確認できなかった。たとえば傷つくの恐れ、希薄とされてきた友人関係。実際は希薄とそうでない関係が混在し、ある種の濃密化と多チャンネル化が明らかになった。/また、自己の不確かさは増してはいるが、アイデンティティーの未確立というより、自己の多元化がうかがえる。そこにエゴのむきだしはみられない。道徳・規範意識は全体に高かった」という結果が得られています。「ある種の濃密化と多チャンネル化」というのは僕が以前「最近の若者について」という記事で書いたある種のコミュニケーションスキルの重視と友人同士の「親密圏」の主観的重さに重なるところだと思います。また「自己の不確かさ」と「自己の多元化」というのも、空気を読んで周りに合わせて振る舞い続け、「本当の自分」への渇望を抱えるという分析と一致します。そして道徳・規範意識の高さですが、ようするにこれは自分の価値観を持っていないために、その不安定さを律法主義的な志向を持つことによって代償していると考えられます。彼らにとって道徳・規範という「ルール」は暗記テストの点数と同じように完全に客観的・公共的尺度として存在すると捉えられるようです。しかしここで注意しなければならないのは、彼らにとって、「道徳・規範」と「みんながやってること」は同列であるということです。「道徳・規範」という文化装置は自己の内面に自然発生する内在的な性質もありますが、「世間の目を意識する」という外在的な性質も大きいものです。つまり「空気」を読むのと同じ意味での「道徳・規範」が、彼らの「道徳・規範」であると考えられるのです。そこに存在するのは「みんなで決めたことなんだから」というあの「空気」です。「みんなで決めたこと」が実際にどういう結果をもたらすかは考えないし、決める主体は「みんな」なので「自己責任」もあいまいだというわけです。あのイラク人質事件や北朝鮮拉致被害者家族の批判も、「みんなで決めたこと」とは別の「価値・規範」が存在することに対するある種の怯えがあったのではないでしょうか。「空気」を読まない他者は「みんなで決めた」ルールに従いません。そのとき「空気」を読まない人とどう対話したらいいのか、彼らはその術を知らないのです。また、「自分はこんなに空気を読んで周りに合わせてがんばっているのに、この人ばかり好き勝手にやりやがって!」という言いがかり的な思いもあると思います。それこそ「自己責任(!)」であると思うのですが、彼らにとって「自己責任」とは「みんなで決めたこと」とは違うという限定的な範囲でのみ用いられることばなのです。

*4:まあ世代論というのは雑駁なものなのであまり信用しないにこしたことはないのですが、