微妙な違和感

 id:x00000000さんのところのコメント欄。きむさんの支持と、x00000000さんの差別体験の記事に寄せられたもの。
 このやりとりに微妙な違和感があるのだけれどうまく言えない。あとで考えるために張っておく。
 

ajisun 『そもそも他人と向き合うことを拒絶している人が多いと思います。気持ちをわかり合ったり、辛さを分かち合ったりすることに価値を置いていない社会になってきている気がいたします。真の道徳、倫理がない社会です。これって、あらゆる場面での教育が間違っている結果ではないかと思います。そもそも偏差値教育が諸悪の根源と思っているのですが・・・。
母も、ALSになった途端、指差されたり、覗き込まれたり・・操さんなんて「生きててうれしいの?」っだってさ。(これはオランダでのことですが)』 (2006/05/12 18:49)

# x0000000000 『少し考えましたが、愉快犯とそうでない人がいますね。操さんが聞かれたのは、本当にマジメに聞かれたのでしょう。まだそういう人なら議論の余地はあると思います。言われるように教育もその一つとして槍玉に挙げられると思います。ただ、その場限りで、たまたまそこにいた人の外見的特徴を嘲笑するような輩には、現実にどう対処してよいか難しいですね。あまり言うと殴りかかられても困るし。この前は家の近くの自販機でコーヒー買ったところを中学生4人ぐらいに取り囲まれました(笑)。騒ぎ立てたらそのことじたいをおもしろがるので、実際は何もしませんでしたが。何か理由をつけて自分より「下」の者を見つけて嘲笑する、というのは、きっと社会構造にも起因すると思います。それがエスカレートしたらきっと野宿者の「粛清」とか言いはじめるのかな、とか思ったり。』 (2006/05/12 20:26)

# t-hirosaka 『x0000000000さんが「下」の者?可笑しくて涙が出ちゃいましたよ。』 (2006/05/12 20:46)

# x0000000000 『はい。ぺーぺーでございます(違)。』 (2006/05/12 20:55)

# ajisun 『ひどい!野宿者の次は障害者だってわけ?今度そんなことされたら、私を呼びなさい(っていいたいけどウルトラマンじゃないので気持ちだけ・・。)』 (2006/05/13 06:47)

# x0000000000 『まぁある程度するとこちらが慣れてきますからね…。「慣らされる」ってのは、本当に怖いです。愉快犯に「その場で」言い返すことの非常な困難さがあると思います。中学生ぐらいでも4人集まったら怖いですよ(あっ、誤解しないでくださいね。「中学生は怖いものだ」とかって言ってるんじゃないです)。』 (2006/05/13 08:08)

# mojimoji 『実は、x0000000000さんからこの話聞くことにも慣れ始めているのが怖い。結構頻繁ですよね。地元の学校に申し入れても、火に油注ぐような対応されかねないしなぁ。なんかいい方法はないものか。
ajisun さんがおっしゃる「教育が間違ってる」というのは僕もそう思います。競争社会が持っているhidden curriculumでしょう。競争社会を基軸にして「他者を尊重しましょう」などと取って付けたように言うのと、他者を無条件に尊重することを基軸にして「ここでは競争してもいい」という風に位置づけるのは、似ているようで根本的に違いますし。(競争原理の持っているhidden carriculumを考慮に入れると、この原理が「効率的だ」なんてのはとてもじゃないが悪い冗談にしか見えなくなります。)』 (2006/05/13 09:46)

# x0000000000 『「うちの学校の生徒がしたっていう確証はどこにあるんですか?」とか言われたりして。』 (2006/05/13 11:53)

# dojin 『うーむ。ただ、未だかつて、すべての他者に対して「気持ちをわかり合ったり、辛さを分かち合ったりすることに価値を置いてい」る社会などなかったんじゃないですかね?前近代社会にも、この種の差別意識、排除意識は、集団内でも集団間でもあったはずです。ですので、競争社会や教育にその原因を求めるのは短絡ではないでしょうか。我々は前人未到の境地を目指さなければならないわけです。

>競争原理の持っているhidden carriculumを考慮に入れると、この原理が「効率的だ」なんてのはとてもじゃないが悪い冗談にしか見えなくなります。

是非、この問題を克服する、非市場的価値をも取り込んだ社会的厚生関数を構築してください!』 (2006/05/14 04:31)

# t-hirosaka 『おharuさん、退院したようですよ。』 (2006/05/14 17:56)

# mojimoji 『>dojinさん
僕の主張がかつてあった<他者への配慮>が壊れた、という主張ならおっしゃる批判が当てはまりますが、僕はそのようには考えていません。おっしゃるように、未だかつてそもそもあったのか、と問うならば、多分なかったんじゃないの?と思っています。(と同時に、僕のスタンスとしては歴史的分析に踏み込まない議論が身上ですし。)/市場を導入するとき、市場的関心が現れて、それが努力を引き出すという面があるのは確かです。他方、そういう場所からは非市場的関心がなくなっていく、というのは心理学的にはそれなりに有力な議論として提示されています。全部読んだわけではないんですが、A・コーン『競争社会をこえて』『報酬主義をこえて』といったあたりでそういう議論をしています。最近だと労働問題において能力主義成果主義についての議論でもそういう指摘があるように思います。/というわけで、僕の立場は「他者を無条件に尊重することを基軸にして「ここでは競争してもいい」という風に位置づける」という形で、競争そのものの意味を変えないといけない、というものです。政治の役割は、もっと大きなものになります(このあたりは、救命ボートについての稲葉さんとのやり取りの話につながっていきます)。

それと社会厚生関数について。dojinさんにもお渡しした「批判的合理主義の正義論」は、実は非正当化主義的・可謬主義的な社会的選択理論への序論として読むことができます。社会的厚生関数の動学理論とでもいいますか(かなり手前ミソ)。』