非対称性ということのメモ

 以前id:mojimojiさんのエントリの中でパレスチナの話があって、イスラエルは強大な軍事国家で明らかにパレスチナ人のほうが抑圧される立場の側に置かれてるんだから、自爆テロだの何だのといったって、パレスチナ人寄りであることが中立的でないなんて言説はおかしいんだ(大意。あとで見直して間違ってたら修正します)ということが言われていたと思うのだけれども、これが最近いろいろなところで当てはまるんじゃないかとふと思った。
 具体的には在日外国人やフェミニズムに関する言説に対してそれらが「中立的」でないとか「他の被抑圧者」を無視しているとかいったことを言う風潮があるように思う。あとは「客観的」でないというのもセットで加えられることが多い。
 しかし、それらの「中立」とか「客観」とか「偏向」とかいう指摘は全くもって単なる欺瞞である。それらは「現実」としての非対称的な構造問題を全く無視しており、表層的な言葉面のみを問題とする点で、僕が以前のエントリ*1で触れた「ディベート」そのものである。そしてそうした「現実」の非対称性を無視するというのはネット右翼が持つ大きな特徴の一つなのである。彼らにはイデオロギー・アレルギーとでも言うべき傾向があり、何に関しても二言か三言目には「中立」、「客観」といったことばを口にする。そうすることによって自分は「偏向」から、もっと正確に言えば恐らくは「洗脳」されたり「踊らされる」ことから逃れられるとネット右翼は思っている。ところがここにネット右翼の大きな勘違いがある。どんなに「偏向」しない努力をしようとも、僕たちの発言は何らかの政治的文脈において読まれ、発言者の立場を特定されることから逃れられないからだ。しかも在日外国人問題や北朝鮮問題などはとりわけ政治性の高いものであり、そうした問題に口を出しておいて、自分は「中立」や「客観」を保とうとしただけだ、などと言うは笑止千万である。
 さらに、こうした自身が具体的立場を選択していないかのような欺瞞は、まさにアイヒマンの縮小再生産であるということに注意しなければならない。いまこの国ではプチアイヒマンが大量生産されている、そんな気がする。あるいはヴェーバーが『職業としての政治』の中で述べた「心情倫理家」もネット右翼と似ているかもしれない。

もし今この興奮*2の時代に――諸君はこの興奮を「不毛」な興奮ではないと信じておられるようだが、いずれにしても興奮は真の情熱ではない、少なくとも真の情熱とは限らない――突然、心情倫理家が輩出して、「愚かで卑俗なのは世間であって私ではない。こうなった責任は私ではなく他人にある。私は彼らのために働き、彼らの愚かさ、卑俗さを根絶するであろう」という合い言葉をわがもの顔に振り回す場合、私ははっきり申し上げる。――まずもって私はこの心情倫理の背後にあるものの内容的な重みを問題にするね。(ヴェーバー『職業としての政治』P102)

 ああ、あとこれって教育基本法「改正」推進派、憲法「改正」推進派とかにも聞かせたいよなあ。絶対「心情倫理」でやってるよねえ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/mushimori/20060626

*2:引用者註・「祭り」とか「消費」と言い換えてもいいだろう。