「子供を守る」と「子供が怖い」は同じ

 大塚英志の『子供流離譚』をいま読んでいる途中なのだが、ここで書かれていることはいまの社会にもまったく言えるように思う。それで最近流行の*1「子供を守る」ことに関して、本書を参考にして少し書いてみようと思う。
 最近立て続けに幼い子供が犠牲となる事件が起こったのは事実である。朝日新聞が「子供を守る」などという特集を組んだりもして、地域でいかに子供を守るかということが大きく話題になったが、僕は正直に言ってその風潮にあまり好意的にはなれない。別に僕は子供を守ることそのものに対して異議を申し立てたいわけではないが、大きく盛り上がった「子供を守れ」の声はやはりどこか過敏であり、異常さを持っているように思う。
 そもそも、大人たちは「子供」という存在に対してどういう視線を投げかけているのだろうかということが気になる。そのことを考える手がかりとして、酒鬼薔薇事件のあたりから延々と繰り返されている少年犯罪の「急増」、「凶悪化」という実体とは異なった言説が力を増していることがあげられると思う。子供への感情としては一見正反対のようにも思えるこうした言説が実は子供に対する愛情と裏表にあるのではないか、ということを大塚英志は以下のように記している。

 子供を異類と見なす大人の視点がメディアの中で反復される。さらにこれとポジとネガの関係のように、ぬいぐるみに対するような過剰な愛情が子供にそそがれる。子供たちを<モノ>と見なし、これが<かわいい>あるいは<良い子>という、大人たちの安定した空間をおびやかさない無菌の存在であることを条件に過度の愛を注ぎ、ひとたび<かわいい>の枠の外に子供が飛びだすとすぐさま<異類>として追放する、という親子関係である。
 日本の都市が、養護施設、ゴミ焼却場、ワンルームマンション、ヤクザの事務所といったものを<異物>とみなし排除しよう傾向があることはしばしば指摘されてきたし、それが時には"住民運動〟という形で表出したことさえあるのは否定しようのない事実である。都市の均質性を保つために次に排除される異物として選ばれるのは子供たちである、というのはいささか挑発的すぎるかもしれない。だがぬいぐるみ子供服に最も顕著なように、子供をめぐる商品の一部が、子供を無臭化する装置として存在しているのは確かだ。
大塚英志『子供流離譚』)

「変質者に襲われる無垢な被害者」として子供をみなすことは、子供を<かわいい>存在としてとどめておくのにとても都合がいいのは明らかだ。そういう枠組みで捉えられた子供が大人たちの社会の均質性を乱すことは“ありえない”のである。
 そして裏を返すならば、大人たちは常に子供たちが自分たちの期待する純粋で無垢な<かわいい>子供でなくなるのに怯えているということになる。だから常に子供が自分たちの<かわいい>人形という規格から外れないようにしなければいけない。子供を守る、というスローガンを叫ぶ人々は、実は自分たちが期待する<かわいい>子供像を守るために、あえて「子供を襲う変質者」の存在をむしろ積極的に求めている、ともいえるのではないだろうか。
 そしてその<かわいい>子供たちがもしも規格外に逸脱して犯罪など犯してしまった場合には、もはや修正の機会は与えられず、容赦のない攻撃が加えられる。社会化の手順を何一つ示さず、それどころか妨害までしておいて、一方的な断罪と消費の対象化をするというのはあまりにも不公平な態度であるように思う。

子供流離譚―さよなら「コドモ」たち (ノマド叢書)

子供流離譚―さよなら「コドモ」たち (ノマド叢書)

 
 

*1:ピークは過ぎたのだろうか?