いじめのこと。あと、ソーシャルダーウィニズム(=ネオリベ)の影とことばの普遍化について

 まだ内藤朝雄さんのアレも読んでないけど。
 ところでいじめに関する語りでこんなものがある。

自分はいじめが悪くないとは言ってないですよ。ただどうせ社会に出たら理不尽なことがあるのだからいじめられる方は処世術を身に着けるべき。

あるいは。

いじめは確かに悪いが、いじめられている方もいじめられる原因があるのでそれをなくす努力をすべき。

 これらの言説は「いじめは確かに悪い」と一応断る点が悪質である。そして必ずその後に「でもいじめられる方だって……」ということばが続き、結局「いじめられる方が変化すべきだ」ということを言っている。
 こうした言説について、「問題を分節化しているのである」と語ることは果たして正当といえるだろうか、いや、正当ではない。これらの言説は問題を分節化しているのではなく、「いじめ」という「問題」を構成する要素を「相互無関連化」させているのである。「いじめは悪い」が「いじめられる方は処世術を身に着けるべき」、「いじめられる方はいじめの原因をなくす努力をすべき」という言説はそれだけですでに議論の準拠枠を設定しているのであり(むろんそれはすべての議論に言えることだが)、その準拠枠の限定性が大きい。前者は「理不尽な社会の方が間違っているのではないか」という設問をあらかじめ封じ、後者は「いじめられても構わない種類の人間がいる」という前提を隠し持っている。前者についてはさらに「理不尽な社会は確かに悪いが」という但し書きが付けられるかもしれない。そしてこう続けられるのではないか「しかし現状がそうなっているのだから仕方がない」。それを言うならば「いじめられている方」の側だって「現状がそうなっているのだから仕方がない」と言えるだろう。なぜそこで社会の方ではなく、いじめられている方が変わるべきだという判断ができるのか、その基準はどこにあるのだろうか。
 このように、「いじめ」について、またそれだけでなく他の様々な問題についても言えることだが、「問題を分節化」して、「別の角度で」語っているように見える言説が、実際にはその「問題」の社会的な位置づけを無視し、悪い意味で極度に個人主義的な議論の中に閉塞するという事態にしばしば陥っていることには注意する必要がある。上述した、「問題」を構成する要素の「相互無関連化」とは、すなわち「社会的な関係の広がりの中で位置づけられる諸物」という視点の欠如を意味している。またさらに重要な点を付け加えて置くならば、こうした傾向は現代の「思想的」問題と決して無関係ではないということだ。思想のことなど知らずに無意識でそうなっているという言い方もあるだろうが、一般的に、自分の思想的傾向が意識されていないような場合がほとんどであることには留意しなければならない。「ネット右翼」が自分は中道だ、中立だ、とよく言うのは極端な例だが、「自分は中立的にやろうとしている」という言説が中立的であることはまずないと言っていい。そこで言われているのが「自分はどんな価値観にも染まっていない」という意味だったりすればなおさらである。「社会的視点の欠如とそれに伴う極度の個人主義」というのはどう見てもネオリベ的な言説であり、一般大衆にまで浸透しているこの時代に規定されたことばである。
 そして厄介なことには、こうした言説に対する批判言説というのがあまりに脆弱なのだ。例えばこの記事で言及している「いじめ」に関して言えば、「かつていじめられた者の切々たる訴え」のようなものはもはや完全に効力を失っていると思う。素朴な道徳感情を頼りにしていてはまともな主張はできなくなっているという印象を僕は持っている。
 ではどうすれば良いのか、ということだが、クリスチャンである僕はまず「神にすがれ」と言うだろう。しかしどうしてもそれが嫌ならば、「社会」に目を向けるか、「敵」に目を向けるか、という大きく分けて二つの選択肢があると思う。*1「敵」に目を向けていればその敵を攻撃することで甘美な自己実現に浸ることができる。お手軽で、歴史上最も多く行なわれてきた手法である。しかし「社会」に目を向ける場合にはそう簡単ではない。分かりやすい敵はいないし、そもそも何が「問題」なのかも勉強したり調べたりしないとよく見えないし、「問題」の解決に時間もかかる。第一「社会」とは何なのかということからして曖昧だ。
 ところで、先日id:kurotokageさんの記事吃音と思想とTシャツと王様と私(王様はありません)を読んで、これは一つのモデルになるのではないか、と漠然と考えていた。

 私は自分が“左翼”と呼ばれる思想を持っているという自覚があります。また“リベラル”でありたいとも思っています。それは何故か。
 上で「どもりを憎んでいる」と書きましたが、本当なら「吃音者が笑いものにされ爪弾きにされる社会」こそを憎むべきです。だから私は社会を批判的な視点で捉え、より良いものにするべきだと考えていますが、そういった考えは“左翼”と呼ばれるわけです。
 また、リベラル的な「皆違っていい」「多様な価値観が認められる社会」といったフレーズは理想主義的だとかお花畑的だとか言われますが、私にとっては決して観念的な話ではなく人生に直結したものです。何故ならこの国が吃音者などの「普通でない」人間が当たり前に生きていける社会になるかどうかは、私の今後の人生を大きく左右するからです。私にとって思想や政治的なことは私の日常生活と密接な関係にあり、切り離すことはできません。
 だから私は吃音者故にサヨクであり、リベラルであり、保守にはなりえません。

 kurotokageさんは謙遜して[寝言ポエム]というタグをつけたり「私語り」と書いたりしているが、これは単なる「私語り」の水準を明らかに超えている。確かに、この文章の出発点は「吃音」というkurotokageさん個人に属する事柄であるけれども、それが普遍的な水準(=社会)の事柄に属する語りとして語られている。僕は(kurotokageさんの吃音に関する個人的経験に対して、ではなく)このことばの普遍化という点において大きな感動と尊敬を覚える。kurotokageさんは、この文章の最後に「これまで自分の吃音症のことを誰かに相談したり思いの丈をぶちまけたりしたことがなく、ずっと自分の中に溜め込んでいたので、スッキリした気分でもあります」と書いているのだが、(これは僕の想像だけれども)、「思いの丈をぶちまけた」というほどには「自分の吃音症」のことについては語られていないのではないだろうか。「自分の体験」や「自分の思い」について本当に語れば語ろうとするほど必要なことばが逃げていく、ということについてはid:sho_taさんが夏の教室において書いている。
 全体を通して、kurotokageさんの文章は落ち着いた筆致で端整に書かれている。さらに、それは普遍的な水準を志向した語りになっている。ここにおいて、「kurotokageさんの吃音」という固有性がどれだけそぎ落とされているのだろうか。そのことを僕は知る由もない。けれども、あらゆる語りが他者との関わりを前提として成り立つのであれば、あらゆる語りは常に「語り得ないもの」を含んでいる。その「語り得ないもの」を前提としつつ(ということは自己の物語の不完全さに対する不安に耐えつつ)いかに語るか、ということが大切なのかもしれない。
 この文章は見方によってはkurotokageさんの文章をスプリングボードに使っていると言える。そのことが倫理的に問題とされる部分はあるかもしれない。ただ、そこにわずかでも緩やかな、そして普遍的な共有があればと思う。

*1:しかし真理の問題が除外されたところで何が成り立つのかには疑問がある。