通じ合えることと、通じ合える前提の不可視化

 大塚英志は最近色々な著作や対談で作家の舞城王太郎に言及している。具体的にどういうところに言及しているかというと、「共通語への志向」ということになるらしい。この指摘については僕は舞城の作品を読んでいなかったこともあってなかなか理解できなかったのだが、たまたまこの間読んだ舞城の『阿修羅ガール』の中にそれらしき箇所があった。作中に登場する《天の声》という2ちゃんねるをモチーフにした巨大匿名掲示板の書き込みが延々4ページにわたって描写される箇所である。

「鬼発見記念カキコ」「馬鹿ども!中学生を手当たり次第に車で轢くな!マジです。旧甲州街道大騒ぎ。シャレんなんね〜」「俺も見た。女の子の足片方潰れてた。今調布は超危険地帯。放たれたのは神か悪魔か綾辻行人!」「誰だ綾辻行人って。つーか記念カキコです」「あ、マジで中学生轢かれてる。ははは」「工房です。厨房に刺されました。厨房殲滅してください。つーか病院どこだ」「友達が今厨房に刺されてとなりで泣いてます」「男は拳骨で勝負だろ」「たった今友達とラムちゃんマワしてきました。京王多摩川の駅のそばに放置」「神じゃねー!お前ら鬼だ!」「鬼決定に一票」「二票」「三秒」「ウンコ頭発見。さんぴょうだろ」「ウンコ頭発見ウンコ発見。一票二票ときたら三秒と書く。という常識」「ウンコ頭発見ウンコ発見ウンコ発見」「自作自演やめろ。そもそもウンコ頭発見ネタうぜーんだよ。実況カマン!」「記念カキコ」

 この前後にまだ書き込みはあるが、強調した部分は要するに「ことばが通じていない」箇所であり、特に前者の方は純粋にそのような事態だといえる。大塚英志はネット用語の特徴を、誰かが特定の固有名詞を使った場合に、すぐに「それって何?」というレスポンスが入ってしまうということ、つまり、「言葉が実は通じないということが前提にあって、その上で通じる言葉を、非常に微細な運動として模索している」ということであると述べている。
 ネット上には独特なスラングや言い回しが多用され、それは2ちゃんねるに限った話ではない。この事態に対する一つの解釈として「共通語への志向」が読み取られているわけである。
 しかしこの解釈において二点ほど疑問がある。一つ目は「言葉が実は通じないという前提」は、現状において必ずしもネットユーザー達に意識されているとは思えないということであり、二つ目は「共通語への志向」と呼べるほどネット上におけることばの運動が高尚であるとはやはり現状においては思えない、ということである。この二つの疑問は相互に密接な関係を持っているが、まず「言葉が実は通じないという前提」は意識されているにしろそうでないにしろ、確かにそうだと思う。そしてそこにおいて「通じ合えることば」が盛んに求められているのもその通りだと思う。しかしそのあり方というか方向性には懐疑的にならざるを得ないとも思う。
 例えば今回の「死ぬ死ぬ詐欺」(これも一つの「通じ合える」ネット用語だと思うが)を見ていて、「死ぬ死ぬ詐欺」を「検証」するという振る舞いについての隘路が上述の問題に照らして浮かび上がってくるように感じられた。まとめサイトを初めとして、両親の資産はどのくらいか、NHKでのポジションや仕事内容はなにか、支援団体の実像はどんなものか、病気の実態は、診断基準はどうなっているのか、そういった個々のディティールについての積み上げというものがこれほど熱心に行なわれるという点に関して、「詐欺」という言い方には留保をつけつつも好意的な見解が少なからずあった。様々な要素を捨象して言えば、これは「死ぬ死ぬ詐欺」という問題に関して「通じ合えることば」を構築しようとしたのだとある面において見ることができる。その正確さは脇に置くとして、ガセネタや憶測を排した「透明性」のあることばがそこにおいて求められている、という部分はあるのだろうと思う。
 しかしながら、そこにおいて志向されているものは「公共的」というにはやはり大きく不足するものではないのか、とも僕は思う。どれほど個々のディティールが精度を高めていったとしても、そこで共有されているのは決して「公共的なことば」ではなく、あの「空気を読め」というときの「空気のことば」であることをまぬかれてはいない。なぜならそこには「問いの前提」を疑うという視点が大きく後退、ないしは全く欠落しているからである。「募金」というものが存在することに対して、そもそも誰も「募金」などに頼らなくとも良い社会であるべきではないのか、と考えることは僕には自然なことだと思えるのだが、「死ぬ死ぬ詐欺」のディティールを高めることに意義を見出している人々には、そのような発想はないのだろうか。あるいは今後彼らがそうした問題意識のもとに発言をするということもありうるのだろうか。
 また、たとえば思想家の吉本隆明大塚英志との対談のなかで以下のように語っている。

吉本 いまお話聞いてて思い出しました。僕が関心を持っていることの二つの極端な事例があるんです。一つは、わりあいに新しい、構造主義の哲学者とか文学者とか、それは誰を象徴させてもいいんですけど、たとえばミシェル・フーコーに象徴させると、僕がいつも感ずる感じ方っていうのは、取り上げる問題とか主題に対して、精密すぎるとうことなんです。つまり、いい頭してるのに*1こういう主題につかわなくてもいいじゃないかっていつも思わせるほど、精密すぎる感じがするんです。フランスの優秀な知識人たちはみんなこの傾向を持っていますね。
 それはよくよく考えると、0.1まで思索してすり抜けたものは、四捨五入すれば、それはいちばん正確なんだっていうのに、どうして0.001までやるんだっていうのが、疑問でしようがないんですよ。そこまで表現すれば、より精密になるかっていったら、そうとは言えないので、0.1以下は四捨五入した方が正確な値なんだっていうことはあり得るわけです。数学上そういうことはあり得るわけで、やればやるほど正確だということは絶対ないわけです。
 ですから、フーコーが精密にあることを論じたって、空しい感じがして無意味だっていうだけじゃなく、ほんとは間違いなんだよっていうこともあり得るわけです。フランスの哲学者の、現存する人でもそうですし、こないだ自殺したジル・ドゥルーズなんていう人でもそうです。こんなことをここまでやることはないんだ、そのくせ肝心なことはちっとも言ってないじゃないかっていう、逆にそういう感じを持つことがあるんですね。それを思い出しました。

 フーコーが本当に間違っているかどうかという問いはそれこそここでは「無意味」なことなので脇に置くとして、吉本がここで述べているような感覚を僕は「死ぬ死ぬ詐欺」をめぐる議論でもそうだし、ネット上における多くの議論に同じものを感じている。「死ぬ死ぬ詐欺」の話には皆バイアスがあるだろうから、別の話として例えばid:mojimojiさんが先日上げたエントリ「核武装、議論すべき」発言はどこまでマトモかにおけるコメント欄の中で以下のようなやり取りを見てみよう。

ASDIC 『>対北朝鮮で考えるならば、核を使うくらいならば、ミサイル基地を強襲する先制攻撃を考える方が遥かに現実的

ここは認識不足かと思われます。湾岸戦争では、砂漠地帯に展開したスカッドミサイルさえほとんど補足できませんでした。北朝鮮の山岳地帯という秘匿に有利な地形においてミサイル基地を十分に叩けるとは思えません。

ちなみに核武装論に関しては、dekodekoさんも指摘するところですが、「核保有はしないけど、やろうと思えばすぐできるよ」的なスタンスが有利ではないかと思っています。』 (2006/10/21 13:25)

(略)

# mojimoji 『(略)

>ASDICさん
核を搭載しうるミサイルって、スカッド並の量産地対地ミサイルと同じ位の数をそこらじゅうに配備できるようなものなんでしょうか?そこらじゅうに配備できるとして、それらを全部無力化するために、一体何発の核を北朝鮮山岳地帯に打ち込むつもりなんでしょうか?

まぁ、こういう話については、議論すればできるのかもしれません。しかし、中川も麻生も、自分の責任で議論を始める気はないんですね。「議論はあってもいい」と言っているだけで、誰も議論をしようとしない。なんなんだ、この人たちは、という話です。議論したいなら、すればいいのに。』 (2006/10/22 00:29)

# ASDIC 『>核を搭載しうるミサイルって、スカッド並の量産地対地ミサイルと同じ位の数をそこらじゅうに配備できるようなものなんでしょうか?

数の問題ではありません。隠匿されたミサイルを発見するは困難であるということです。確実にミサイルを潰せない以上「ミサイル基地を強襲する先制攻撃を考える方が遥かに現実的」とは断言できないということです。ちなみに、航空機等による外科手術的な攻撃を前提として話をしていますが、もしも全面的な北朝鮮への武力侵攻を前提にしたお話でしたら、また違う答えになります。

>そこらじゅうに配備できるとして、それらを全部無力化するために、一体何発の核を北朝鮮山岳地帯に打ち込むつもりなんでしょうか?

質問の意図がよく分かりません。先日のレスで書いたように私は核兵器保有に反対の立場です。通常兵器で北朝鮮のミサイルのみを攻撃し、無力化することは難しいと指摘したつもりです。北朝鮮に対する核抑止力の有効性については触れていません。』 (2006/10/22 13:16)

mojimoji 『>ASDICさん
それほど難しいことを言っていません。
結局のところ、ミサイルの発見がそもそも困難であるならば、航空兵力による先制攻撃も、核兵器による先制攻撃も、「どちらも効果がありませんね」という話です。(そして、そもそも抑止力になってない、という話でもあります。)

どちらでもできないにせよ、どちらでもできるにせよ、「核兵器を持つ理由はありませんね」という同じ話に帰着する、ということです。(だから、ASDICさんの批判は、僕が元から述べていたことへの補足にはなっても、批判にはなってない、ということです。)』 (2006/10/22 14:13)

ASDIC 『>mojimojiさん

認識不足を指摘したつもりだったのですが、なぜか批判と受け取られていたようです。誤解無いように日本の核武装に反対の立場であると表明しておいたのですが…。繰り返しますが、北朝鮮に対する核抑止力の有効性については触れていません。

>ミサイル基地を強襲する先制攻撃を考える方が遥かに現実的

この主張は認識不足であると指摘しただけですので、ご理解ください。私が書いてもいないことにまで反論されても返答できません。』 (2006/10/22 20:55)

(略)

# mojimoji 『>ASDICさん
認識不足ではない、と述べたつもりはないのですよ。その意味で「反論していません」。僕が述べているのは、認識不足だとしても僕の主張については大過ないです(論旨は変わりません)、ということです。(僕が認識不足だとしたら、核保有論も認識不足であり、核保有論が認識不足でないならば、僕も認識不足ではないはずです。そのことが言えれば、僕の言いたいことは言えているのであり、僕自身が認識不足であるのかどうかは、僕にとってはどうでもよいことです。お分かり?)

(略)』(2006/10/22 21:08)

# ASDIC 『>mojimojiさん

なるほど、なんとなく分かってきました。

>ミサイル基地を強襲する先制攻撃を考える方が遥かに現実的

この認識は誤りであったが、たとえそうであっても自分の出した結論に変わりはない些末なことなのでどうでも良い、ということだったのですね。そういうことでしたらわざわざ

>核を搭載しうるミサイルって、スカッド並の量産地対地ミサイルと同じ位の数をそこらじゅうに配備できるようなものなんでしょうか?そこらじゅうに配備できるとして、それらを全部無力化するために、一体何発の核を北朝鮮山岳地帯に打ち込むつもりなんでしょうか?

このような意味不明なレス(私は北朝鮮核兵器で攻撃するような主張はまったくしていない)を返さずに最初からそう書いてくれれば分かりやすかったのに。これもきっと私の文章力不足で意図を正しく伝えられなかったせいなのでしょう。反省します。』 (2006/10/23 01:30)

 このやりとりにおいては比較的穏やかに議論が収拾していっている様子だが、緻密なディティールの問題が生じているのは見て取ることができる。「先制攻撃論のほうがはるかに現実的か否か」という問題について、これだけ読むとmojimojiさんはとりあえずこの点において認識不足だったのか、と思ってしまいそうだが(そして失礼ながら実際そうであるかもしれないのだが)、まだ議論は尽くされていない、と言っていいと思う。しかしここで「先制攻撃論のほうがはるかに現実的か否か」という問題に深入りして議論することは、まさに先ほど引用した吉本の言うような問題に突き当たってしまうことは容易に想像される。
 ここに至って僕が思ったのは、普段あまり前提として疑われることのない「問題意識」というものにも、やはり「公共的な問題意識」とそうでない「瑣末な問題意識」とがあるのではないか、ということだ。しかし気をつけなくてはならないのは「公共的な問題意識」というものが孕んでしまう権力性である。特定の枠組み=空気のみが「正しい問題意識」であるという考えは危険であることは言うまでもない。しかし現状においてネオリベ的ないわゆる「自己責任」論が力を持ち、「社会」という概念が著しく退潮していることに対してはなんらかの方策を考えなくてはならないと考える。そのモデルとしてこの記事の中でid:kurotokageさんのエントリをとりあげたわけだが、つまり、個々人が抱えるそれぞれの問題(それはある種の「生きづらさ」と言っていいかもしれない)を「社会」という枠組みの中に位置づけなおす試みというものが必要なのではないか、と思うのである。どのような社会が自分にとって生きやすい社会なのかということを考え、そしてその社会は自分以外の他者にとっても生きやすく、共有可能な社会か、ということを考える思考法によって、個々人の立場から社会を形成する道筋を具体的に構想できないものかと思っている。少なくとも「目に付いたむかつくあいつに石を投げる」よりはそちらの方が生産的だろう。*2
 ネットにおける「通じ合えることば」が単なる「空気読め」でしかないことは多数の人が程度の差はあれ感じていることだと思うが、空気を成り立たせている前提そのものを疑い、別種の「通じ合えることば」を模索していくことが必要なのではないだろうか。

*1:皮肉でなく、ほんとに「いい頭」だよねぇ

*2:ところでこれはid:kechackさんも鈴木謙介の『カーニヴァル化する社会』への懐疑として述べておられるところだが(http://d.hatena.ne.jp/kechack/20050712)、いわゆる「祭り」には一定の傾向があると感じられる。そのことを詳しく論じる力は僕にはないが、例えば否定的な感情が先立つ「祭り」において、「誰かに石を投げる」という身振りは共通しており、どうも「反反政権」という傾向があるのではないかという部分にはうなづけるところがある。ここからいわゆるネット右翼の分析を鈴木謙介がやっているよりも分かりやすい図式で示すことができるのではないかという気もするのだが、それはまた別途考えたい。