若者の状況に関する言説として興味深いもののピックアップ、あるいは、ポスト団塊ジュニア世代の抱える問題

 後藤和智氏が野田正彰氏の若者に対する見解を批判している記事俗流若者論ケースファイル61・野田正彰: 新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本~を読んだのだが、少し割り切れないものを感じたのでメモを書いておく。

社会学者による「最近の若者」論

 最近、北田暁大鈴木謙介浅野智彦*1の著書を読んでいて気づいたのだが、三者とも若者の現状を分析する上で取り上げている、ある本がある。
 それは社会学土井隆義の『「個性」を煽られる子供たち』である。僕自身はこの本をいま注文しているところでまだ読んではいないのだが、「最近の若者」についての信頼の置ける社会学的分析として評価されているようである。
 北田の『嗤う日本の「ナショナリズム」』では土井を引用しつつ以下のように書かれている。

 こうした窪塚的な「思想」を、どこまで一般的なものとして捉えることができるかは、もちろん議論の余地がある。しかし、各種のデータ、言説をみてみると、窪塚を含む「ポスト団塊ジュニア世代」のあいだにある種の「実存的ロマン主義」が広く、緩く共有されている、という印象論はそれなりに確からしいものであるように思えてくる。
 社会学者の土井隆義は、現在の若者たち(ポスト団塊ジュニア以下の世代)が、「私(自分らしさ)探し」ゲームに駆り立てられ、かつ友人との親密性の維持に汲々としている、という。

  

現在の若者たちは、「自分らしさ」なるものが人間関係のなかで育まれるものとは思っていません。そのため、周囲の雰囲気*2に合わせて演技的な態度をとることは、自分をストレートに「表出」していないという意味において、自己欺瞞にほかならないと感じています。彼らの親密圏での人間関係が、加速度的に重く感じられるようになってきているのはそのためです。純粋な関係性への期待とその現実との乖離が、ますます激しいものになってきているからなのです。


 巷にあふれる「最近の若者の友人関係は希薄になった」という言説とは逆に、若者たちは過剰なまでの「誠実さ」をもって過酷な社会空間を生きている(その結果、旧世代からみるとかれらに「公共心」がないかのようにみえる)、というわけだ。同様の見解は、浅野智彦辻大介といった社会学研究者も提示している。「友人関係が希薄になったから、公共志向が希薄化した」のではなく、「自己表出、友人関係の純粋性を求めるがゆえに、あたかも公共志向が希薄であるようにみえる」という認識は、社会学的な若者論の文脈では、常識化しつつある。


 また鈴木謙介の『カーニヴァル化する社会』では議論のキモである「後期近代における再帰的自己論」へと繋げる文脈の中で参考資料として土井の分析が持ち出されている。

 社会学者の土井隆義は、現代の子どもたちにとって、親密圏の外部における有意味な他者の姿が欠如していることを指摘した上で、子どもたちが、スムーズに対人関係を維持するために、繋がりあいのための繋がりあいへと脅迫的に追い立てられていることを指摘している。

(略)

自己への嗜癖と「脱―社会化」

 こうした傾向は何も社会理論のみならず、経験的な調査データでも示されつつある。若者を対象にしたアイデンティティに関する各種調査からは、彼らが、対面する友達やその時の場面に応じて、自分の「キャラ」を自在に変化させている様が浮かび上がってくる。と同時に、彼らにはそうしたたくさんの「キャラ」を統合する自己イメージが乏しいという傾向も見られるのだという。
 社会学がこれまで想定してきた自己は、社会関係の中で自分に期待される役割を取得し、それを統合する自我を育て上げる「社会化(Socialization)」の働きを非常に重視してきた。しかしながらノンリニアなモードの個人化が進行する社会においては、他者との関係の中で必要とされる役割(me)を取得し、それを的確に演じ分けるアイデンティティ(I)を取得する、といったような「社会化」のプロセスは弱体化せざるを得ない。むしろ必要となるのは、場面場面に応じて臨機応変に「自分」を使い分け、その「自分」の間の矛盾をやりすごすことのできるような人間になること――いわば「脱―社会化(De-Socialization)」なのだ。*3
「脱―社会化」された個人が、現実の社会を生きるうえで必要とするのは、現在直面している社会関係の中で期待される役割を正しく演じるための感性であり、その感性の問い合わせ先としてのデータベースである。つまり、個人化によって可能になる「わたしは、わたし」と無反省に断定する振る舞いは、その都度その都度、データベースに対して自分が振る舞うべき「キャラ」、期待される「立ち位置」を確認するという作業によって可能になっているのである。

解離とは何か、解離は増えているのか

 さて、ここで野田正彰氏の見解に出てくる「解離」について見てみる。
「解離」については精神科医香山リカが『生きづらい〈私〉たち』の中で以下のような説明をしている。

 たくさんの自分が別々にいる。どれが本当の自分なのか、自分でもわからない。
 これは、精神医学の用語で、「解離性障害」と呼ばれている問題とほぼ重なっていると考えていい、と思います。
(略)「たくさんの私がいて、どれが本当の私か自分にもわからない」という事態は、その「ひとりの人間に、ひとつの心」という前提そのものの崩壊を意味しています。中には、その心を形作るたくさんの要素――感情、知覚、意識、記憶、運動、同一性など――の一部が、選択的にまとまりや連続性を失うこともあります。
 このように、心の全部あるいは一部が、本来持つべき連続性やまとまり、いわゆる「統合」を失っていることを、「解離」と精神医療の世界では呼んでいるのです。

 また、この解離性障害の人はもともと少なかったのが、90年代に入って関心が高まり、障害とまではいえないような「解離の傾向」を持つ若者が一般に広まるようになったのだという。香山はこの著書の中で、「若者の抱える問題は確実に変わった」とまず主張し、その具体的な分析として議論を進めている。また、「解離」の状態を呈する人間が「凄まじい勢いで増加してい」るとも述べている。
 後者については精神医療の世界で共通の認識のようであるが、「解離」が最近の若者の問題であるかどうかについては後藤氏的には厳しいところかもしれない。しかし上述した社会学者たちの議論との関連性を考えると「いくつもの私、ほんとうの私」という香山の認識はデタラメとはいいがたい。また、具体的なデータとしては若年者の自殺者数の増加を取り上げている(しかし後藤氏的にはやはり厳しいかもしれない)。

解離と「キレる」の関連性

 さて、後藤氏が特に強く批判しているのはこの部分だが、果たして解離と「キレる」子供(あるいは若者)は関係があるのか。これは現状ではわからない、と言えると思う。「キレる」の具体例*4を見ても、なにがどうなっているのかよくわからないし、当面は「キレる」と解離を結びつけるのは避けるべきだろう。
 しかしながら、上述した香山の議論においては「満たされない私、傷つきやすい私」という問題設定もされており、*5キレやすい子供(若者)という表現が、そうした解離性の傾向を指して言われる場合がある程度考えられる気もする。ただ、後藤氏が指摘するとおり、「キレる」という語彙が政治的に(教基法改正やまとはずれな「対策」などに)悪用される現状を踏まえると、安易な結びつけは控えたほうが良いだろう。しかし僕は後藤氏とは違って、現在の青少年が何らかの問題(それが精神病理と呼びうるものかはあまり関心はない)を抱えているならば、「戦略的」になどならずに積極的にその問題を提起していくべきだと思っている。対峙言説の不備を突くだけでは不足であるとも思うし、具体的な社会構想をする文脈での議論の方がより実のあるものとなるのではないだろうか。
 ちなみに、野田氏の言うような「解離」がファッションとなっているという言い方には賛同しかねる。解離が広がっていることは事実でも、それには社会背景的要因があるはずであり、短絡的に「いまどきの子どもは意識的にファッションとして解離をしていてけしからん」というような話には持っていってはならない。

ところで、id:kurahitoさんがmojimojiさんの記事へのブクマで「後藤は参考にならんよ」と言われていたことの意味がどういうことなのか、詳細が知りたいです。ちょっと面白そう。

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

生きづらい<私>たち (講談社現代新書)

生きづらい<私>たち (講談社現代新書)


 

*1:11/12追記:間違いでした。浅野智彦が取り上げたのではなく、土井隆義浅野智彦の論文を取り上げていたのでした。すいません。

*2:孫引者注:これは、「「空気」を読め」、というときの「空気」に相当するものであろう。

*3:これも「空気」を読め、読む、という話だと思う。

*4:「切れる」とはどういうことか。中学生たちは、「副が切れて、髪の毛が逆立って、威嚇して、エラ呼吸しはじめてジャンプ」、「澄んだ眼をしていて、口をきかない」、「ちょっと肘が当たっただけで、一発殴って叫びだした」、「先生に怒られて、その先生の強化のノートをビリビリにしたり、黒板で“死ね”と大きく書いていた」と説明している(深谷昌志教授らによる調査、「モノグラフ・中学生の世界」、98年12月、「キレる、ムカつく」)。

*5:ちなみに香山の問題設定は「満たされない私、傷つきやすい私」、「いくつもの私、ほんとうの私」、「最後の砦としてのからだ」という三つの柱からなっている。