魔術?

 以下、ヴェーバー『理解社会学のカテゴリー』より

 ところで、しかし、ある共同態の合理化とは、実際には何を意味しているのであろうか。帳場掛ないしは帳場の番頭でさえも、記帳のやり方を「知って」いて、正しく――または個々の場合には、誤りや欺瞞のために、間違って――使うことによって、その記帳のやり方を基準にして行為を行なうためには、彼が合理的な諸原理――これによって上の諸規範〔=記帳のやり方〕が考え出された――を思い浮かべていることは明らかに必要ではない。〔また〕われわれが九九の表を「正しく」使うためには、われわれが、たとえば「2から9はひけない、そこで1借りてくる」という引き算の公式の基礎になっている代数学の諸命題を、合理的に理解しているということは必要ではない。九九の経験的「実効性」は「諒解の実効性」の一事例である。しかし「諒解」と「理解」とは同じではない。九九は子供の時にわれわれに「授与」される。それは独裁者の合理的命令が臣下に「授与」されるのとまったく同じである。しかも、それは最も内面的な意味において、われわれによってさしあたりその根拠も目的すらも全く理解できないあるものとして、しかしそれにもかかわらず拘束的に「実行力をもつもの」として、「授与」されるのである。したがって、「諒解」はさしあたり、単に、それが習慣的だからという理由で、習慣に「従う」ということである。そして、多かれ少なかれ、その状態が維持されるのである。人々は自分が諒解に従って「正しく」計算したかどうかを確かめるには、合理的な考量によるのではなくて、覚えこんだ(授与された)経験的な吟味法に頼るのである。
 このことはあらゆる領域で繰り返し見られることであって、たとえばわれわれが市外電車や水圧エレベーターや小銃を目的に応じて使う場合には、それらの構造が依存しているところの自然科学的な規則については何も知らないままに使っているのであり、それについては電車の運転手や銃製造工ですら不十分にしか知っていないのである。また今日では、普通の消費者は日常生活用品の製造技術については、おおよそのところしか知らないし、それらがどんな材料からどの産業で作られるのかさえ、ほとんど知っていない。彼らの関心はまったくただ、これらの製品がどう動くかについての、彼らにとって実用的に重要な期待だけである。