人は何のために生まれるのか

 人は何のために生まれるかというと、それは「死んでよみがえる」ためである。ここで言う「死ぬ」と「よみがえる」には様々な位相の意味が重層的に含まれている。
 このことをさらに説明するためには何か具体例が必要だろう。例えば「大人になる」というような。「大人になる」というとき、そのことばはすでに「大人でない存在」、つまり「子供の存在」を前提としている。つまり、「大人になる」ということを正確に記述するならば、あらかじめ互いが互いの存在を前提とすることで成り立つ一組の概念である「大人」と「子供」という枠組みの中で、「子供」であったものが「子供」ではない状態になり、そして「大人」になる、というようになるのだ。ここにおいて「子供」が「子供」でなくなるとは象徴的な「死」を含意し、「大人」になるとはその「死」からの「よみがえり」を象徴的に含意していると見ることができる。
 しかしここには見落としてはならない要点がある。それは「死」と「よみがえり」の「中間」である。「死」ぬということが、ここでは「子供」ではなくなる、ということであるが、それはすなわち「子供」ではないなんらかの特殊状態に置かれる、ということである。なぜこれを単に「死んでいる状態」ではなく、「何らかの特殊状態」としてあえて考えなければならないのかというと、その人は、その状態になる前には「子供」であり、この後に「大人」になる、という“一連の流れの中で”「その状態」にあるからである。もしもこの“一連の流れの中にある”という認識の下にその状態があるのだということが理解されないのであれば、それは単に(一連の流れに対して)平面的現在において「死んでいる状態」としか言うことができない。しかしさらによく考えてみると、この平面的現在において「死んでいる状態」という言い方はおかしい。なぜか。「死んでいる」というのは、まさにその人が「死んだ」ということを、つまりその人は以前に「生きていた」という過去の状態を必然的に含意しているからである。我々は人が「死んでいる」ということをまさに「死んでいる」という平面的現在におけるそのことのそのものとして指し示すということが原理的に不可能なのである。我々のことばは時間軸の存在を前提として成り立っている。しかもさらに驚愕すべきことには、その時間軸を前提として語られるあることばとあることばとの、それ以上分割することのできない強固な結合が存在している。「生」があるためには「死」がなければならず、「子供」があるためには「大人」がなければならない。これは普遍的共時構造を持っている。すなわち、少なくともことばの水準において、ということはすなわち我々の現実の水準において、時間軸上のという意味で通時的なある普遍的事象の展開が、一つの共時態として存在しているのである。
 話を戻すが、まさにそうした「共時の中の通時」において、「子供」が「大人」になるときの、「子供」でなくなったが、まだ「大人」ではないという、象徴的「死」の「中間」としての「ある特殊状態」が立ち現れてくるのである。
 力尽きた。