雑感

 sava95さんのエントリで以下のような現場教員の声が紹介されている。

高校に勤める友人たちが、この数年の間に何度も言うこと

「今の生徒たちは、人に嫌われないためだけに生きているように見える」「これまで『強いられる』という経験をしていない」「誰とも本気で付き合っていないように見える」「両親も学校も恐くない、ただ友だちとの関係性だけに怯えている」「いじめの当事者がコロコロかわる」「携帯メールであっさり関係性の力関係が変わっているらしい」「いじめの悩みで欠席していることを友人の誰にも説明していない」「集めたノート(プリント)を配らせると、クラスメイトの名前を知らないから配れないと言う」等々
http://d.hatena.ne.jp/sava95/20070126/p2

 またこの後に土井隆義のいじめに関する記事が引用されている。土井隆義については僕は最近注目していてこのブログでも何度か取り上げてきたが、ブログ界隈ではあまり目立った取り上げ方はされていないようで、少し残念に思っていた。現在の若者論というのは俗流若者論と俗流若者論批判に極端に分裂しつつあるような印象を僕は持っていて、もう少し現実の若者像に接近した上での議論が必要なのではないだろうかと思っている。
 社会学的な若者論において「親密圏」の変容という問題、つまり上で引用した高校教員のことばにある「友達関係の極端な重さ」というものについては常識化していると北田暁大は『嗤う日本の「ナショナリズム」』で述べていた。北田暁大鈴木謙介といった最近大きく名の売れた社会学者が著書の中で土井の議論を参照しているし、安直な「教育」言説の虚妄を突くことで評価の高い広田照幸http://www.kinokuniya.co.jp/04f/d03/tokyo/jinbunya7-2.htm#1において土井の議論の重要性を指摘している。本当ならもっとこうした事態についての共通了解が得られていてもよさそうなものだが、2ちゃんねるなどのなじみのキーワードに目が行ってしまうせいか、オーソドックスな「若者の実態」に関する一般の議論は広まっていないように思う。とりあえず土井隆義の著書では『「個性」を煽られる子どもたち』が薄くて安いのでお勧めしたい。

 ところで、sava95さんのエントリへのブクマで「こういう関係は昔からあったのでは?」という反応が見られたが、どのくらい昔からか、というのがここでは重要である。土井によれば、現在の状況は日本社会の拡張路線が終焉したことを境に進行してきたとされる。日本の実質経済成長率は1974年にそれまでのプラス一辺倒から初めてマイナスに転じた。そして経済構造の変化にやや遅れて文化構造も変化し始め、また90年にバブルが崩壊して拡張路線の終焉が明確に意識されるようになる。こうした歴史的経緯によって、世代的な差が生じることとなり、拡張路線が継続中に人格形成を終えた40代以上、境目に位置する20〜30代、80年代生まれ以降の世代でそれぞれ状況は異なっている。だからid:terracaoさんが80年代のJ-POPを引き合いに出して「自分を演じているというのは昔からあった」というのは情報が新しすぎるように思う。比較するなら70年代以前のものだろう。また同じ「演じている」でも土井の議論を踏まえるなら現在と以前では質的に異なると見なければならないかもしれない。
 ちなみに、同じブクマの中で「携帯電話があることが悪いのかそうでないのか」というような話になっているが、携帯電話はあくまで背景にある問題の発露であって原因ではないと見るべきである。それこそいじめ問題でいじめる側を厳しく罰するべきか否かというような表層問題にとらわれるのと同じになってしまうではないか。