「子どもを守る」とかいう話について

 朝日新聞が、ちょっと前から紙面で「子どもを守る」という特集というかテーマを掲げていて、それがずっと気持ち悪いと感じている。最近子どもが犠牲になる事件が続いているので、なんとかしなくちゃということなんだろうけれど、そのなんとかの仕方に対してどうにも違和感がある。その違和感がどこからくるのかということを考えてみると、どうも犯人のことに全然関心が向かわないのが原因ではないか、と思う。
 たとえば今回の投げ落とし事件に関することだと、「不可解な動機」とかいって、それでもう犯人に関することには思考停止してしまっているように思う。一応、「普通のまじめな人」とか「リストラされた」とかいう断片的な情報は集められるのだけれども、だからそれがなんなのかという物語が全然描き出されないことが不思議だ。
 今朝の天声人語でも、「建物の構造」とか「住民の目や声」とかが問題にされていて、犯人のことには一切触れていないのがとても気にかかる。「建物の構造」というのは要するに監視カメラを設置しろという考え方と同一のもので、犯罪抑止を単に技術的に処理してしまおうとするものだ。「住民の目や声」は古きよき地域共同体という幻想に過ぎないのじゃないかと個人的には思うのだが、実質的には要するに「自警団」とか「隣組」を戦前みたいに作りましょうというものではないのだろうか。
 ともかくこうした考え方に共通なのは、犯人に関心がない、ということである。つまり、犯人を通して社会的な問題を提起する、という視点がないのである。
 犯人に関心を持っているように見える場合でも、それは要するにその犯人がいかにだめな、あるいは危険な性質の持ち主かとか、親が悪かったから、という非常に閉じられたレッテル貼りに終始してしまう。それによってなんら公共に資するということはない。それは犯人に関心があるということとは違う。
 こういう風にすれば犯罪がなくなる、というような理想的な手段はないが、社会の状況によって顕現する事象が影響を受けるのは統計的事実なのだから、そもそも犯罪を犯そうとは思わないような社会へと漸進するべきだという主張には十分正当性があると思うし、そのための手段も本気で考えればいくらでも思いつくはずだ。今回の投げ落とし事件に関して言うなら、もしも彼がリストラされなかったら事件はおきなかったんじゃないかとみんなちょっとは思っただろう。

「子ども」の話をしたついでといってはなんだけど、教育基本法の改悪についても無論同じことが言える。教育基本法を変える、愛国心を教え込む、そうすることで最終的になにをどうしようとしているのか。少年犯罪を減らしたいのか。だとしたら本当にそれを実現することができる見通しが立っているのか。答えられまい。
 それよりも、たとえば戦後、貧困に由来する少年犯罪が多発していた時期があったことを思えば、就学援助を受ける児童が大量に存在するなどという状況の方を改善する方がはるかに現実的で危急のことだと言えるだろう。それこそ「子どもを守」ってほしいと思うよ。
 ある問題について、形式的な対処ばかりでちっとも深層にあるものを読み解こうとしない、結果として根本的な解決にはならず、ずるずると状況は悪化していく。そんな構図は昔からあったのかもしれないが、ここ最近は特にひどいように感じる。流行の「高度××社会」という言い回しに習って、僕はこのような社会を「高度ナマケモノ社会」と呼びたいと思う。