自己肯定感の低さと教育の影響の可能性

http://d.hatena.ne.jp/Backlash/20060610バックラッシュ!』発売キャンペーンのページで公開されていたチャットで興味深いやり取りがあった。「ネット右翼って自己肯定感低いからああなってるんだよね」という話。僕が興味あるのは「じゃあどうしてこんなに自己肯定感低くなっちゃったんだろう」ということ。
 たとえば子供の虐待に取り組んでいる人とか、水谷修の話とか聞いてると、子供たちの自己肯定感の低さ、というものがよく問題にされているように思われる。最近人気らしい子育て本の紹介が『朝日新聞』に載ってて、それによると3歳まではきちんと自己肯定感を与えなければならない、しつけなどはもう少し大きくなってからだ、ということが書いてあった。ほかに水谷修の講演を聞いたときに、きちんと失敗させない教育が問題だという話もあった。失敗を繰り返すことによって、問題解決の実感をつかみ、きちんとした自己信頼へとつながるということなのだと思うが、日本の教育は失敗をさせないようにさせないようにしている、とのこと。
 リストカットでも同じことを考えていて、僕がとあるリストカッターのホームページを見てて思ったのが、なんだかものすごく自己肯定感が低いんじゃないかということで、これはもう少し調べてみないとわからないが、個人的に考慮しておきたい。
 また、僕と同じキリスト信者で学校の先生をしている方から聞いたのだが、5年くらい前だったら学年に1人か2人だったリストカッターが今は20人くらいに増えているらしい。水谷修も、暴走族に入っちゃうような子達とかを以前は相手にしていたのだが、そのうちそういうエネルギーすらない、リストカットしてしまうような子供たちが増えてきたと言ってて、関係がありそうだと思っている。
 さらに坂本秀夫が『体罰の研究』の中で、日本における体罰の歴史的変遷を記述しているのだが、坂本は、高校紛争の後に、中学への紛争の波及を恐れた中学校側が、高校紛争が力でねじ伏せられたように中学でも強硬な管理教育が行なわれ、退学等の処分がない中学ではもっぱら体罰が蔓延したのではないかと推測している。80年代半ばに問題となった校内暴力でも、教師の体罰を受けていた下級性が体力のある上級生になった段階で復讐したという見方もあるようであり、今後個人的に調査を続けて生きたい。さしあたっては毎日新聞社の『校内暴力の底流』を読みたいと思う。そしてネット右翼の人たちがこうした教育の中から生み出された可能性があるのではないかということを仮説としてたて、検証していきたい。
 また、昨日広田照幸の『教育依存と教育不信の時代』をぱらぱらと読み返していたら、10代後半の子供たちがどういう環境にいたかという研究はしようとおもっているが忙しくてできない、ということを書いていて、僕は「そんな大事な研究がまだなかったのかよ!」と驚いてしまった。

makiko:

 今気になっているのは、男性である特権に十分に浴せていない男性のことで、バックラッシュネットウヨの温床になっているのは、このような層だと思うんですね。こういう層が、かれらが新たな特権層と見ている「勝ち組」女性の進出の背後にある、男女共同参画政策に対する感情的な反発につながっているわけで。

 むしろ、そういった層にも、自分たちを縛っているのは男性ジェンダーの問題であって、ジェンダーという考え方から見ると女性との利害対立は見掛けのものにすぎない、ということを、わかりやすく魅力的な言葉でアプローチすることが必要か、とも考えています。



chiki

 なるほど―。macskaさんのジェンダーライツの確立ということですが、他のグループの損失が自らも属するパブリックの損失になるんだ、という意識の構築は可能なのかという問いがありますよね。とりわけ「男女平等」の側――大雑把なわけ方ですが、特にマイノリティ性のようなものに対してセンシティブでなくてもそこそこやっていける層――がそのライツに自覚をもてるのか、という疑問を立てられるのではないかと。月並みな議論ですが、実存と欲求、欲求と欲望、欲望と言説、言説と効果などがそれぞれ乖離していることが自明の状態、あるいは各プレイヤーが自らの利害に無関心、あるいは知ることができない状態では、利害を意識しつつ紐帯していくということ事態が成立しにくいともいえる。そこでは議論はおのずと専門家のものになり、専門家は各プレイヤーからは見えづらいものなので乖離がさらに推し進められるというような悪循環になるのかなぁと。



makiko:

 そこが難しい。



chiki:

 もちろん現実はかように極端な状態になっているわけではなく、もとより紐帯なるものが存在していたというわけではないので整理するためのパラフレーズに留めておきます。ただ、今makikoさんが指摘した、男性である特権――この境界すら自明ではなくなってきていると思いますが――に浴せない人たちがいた場合、その層のジェンダーライツと理論面でなく実践面で並存させるためには、諸パフォーマンスに対してのリテラシーが必要だと思うんですよね、どうしても。



makiko:

 おっしゃる通りです。今では特権とか権力関係というものが、相対化していますから。



chiki:

 昨今では、嗤いのモードと憂いのモードは基本的にコミュニケーションスタイルが違うんだということが繰り返し指摘されます。鈴木謙介さんも論文の中で、最初にモードの違いについて説明しつつ、彼ら=2ちゃん的バックラッシャーは基本的に立ち位置ゲームをしているのだけれど、そのゲームにオブセッシブになるのはむしろ多様性によって肯定されない人たちが存在するという前提から、だからこそ政策論の枠組みでしっかり議論しなくては、というところから思考しているように読めました。この構図自体をそのまま受け入れるわけではありませんが、こういう面はやっぱりあると思う。

 で、何度も繰り返しになって申し訳ないんですが、「バックラッシュ」という現象で「客」や舞台装置が露呈したのであれば、それらを効果的に見分けていかなくてはいけない。しかも、ある種のフレーズを編み出しなおすとか、何か効率的な理論を吟味するなどによる一発逆転などは無理だと徹底的に自覚した上で向き合わないといけない。ジェンダーライツという問いの場の構築それ自体、あるいは誘惑それ自体では既に議論がなりがたいので、ジェンダーライツという問いの場への魅惑といったことを含めて吟味する必要があるんだろうな、と思うわけです。これって当たり前のことですけど。ちなみに、ここで各ライツに自覚せよ、といったらとたんに間違えてしまうのでダメ(笑)



macska:

 そうですねー。



makiko:

 そうですね。まずは話をするという信頼関係すらない状態ですから。



chiki:

 ないっすね(笑)フェミニストがいうことは即疑え、的な固着状態の人も結構いて。前笑ったのは、ある法案に対して「朝日新聞が反対しているからきっといい法案だろう」といって賛成している人がいました。立ち位置系の末期状態(笑)。



makiko:

 それで思い出したけど、ジェンフリ論者も、ジェンダーというものはいけないいけないと言いつつ、じゃあどんな文化が良いのかをあまり提示して来なかったと言えるよね。



chiki:

 ジェンフリ論者の魅力的な誘惑がないということですけど、私、橋口亮輔監督の『ハッシュ!』という映画が大好きなんですよ。何度も見て、そのたびに一人でウェーブしてる(笑)。

 魅力的なテクストを指し示していくという人というのはいてほしいですよ。その橋口監督が参加したイベントのタイトルが「世界よ、追いついて来い! 変態上等!! まだ誤解してんの? ジェンダーフリー」で、すごいなと思ったんですが(笑)。



macska:

 すごいね、変態上等。



chiki:

 すごいよ(笑)



makiko:

 あれね(笑)



makiko:

 やはり2chとかで叩きやってる人は自己肯定の度合が凄く低いような気がしますね。そういうところを引き上げる何かが欲しいと思うのですが、ただそれだけだと精神論に堕ちてしまう。



macska:

 自己肯定の低さというのはすごく問題ですよね。



makiko:

 性別も同じで。



macska:

 各国比較で、日本は自己肯定度が飛び抜けて低いというデータを見ましたが。



chiki:

 ひくいねー。センのケイパビリティに関する議論でも日本は低く位置していたっけ。



macska:

 ケイパビリティの一部にはなるでしょうね。



makiko:

 うんうん。



macska:

 自己肯定感の異常な低さというのがあって、それが理由で排外的愛国主義にくっついたり、フェミバッシングとか嫌韓とかそういうのに行ったりする。

 まれにフェミに流れる人もいて、実存的に依存してくるので苦労するわけですが(笑)



makiko:

 ありますねー。

 そういう人はセパラティズムに走りやすい。



chiki:

 芸術、例えば音楽あたりに流れてくれるといいんだけどねー。

体罰の研究

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