ペットについて

 やはりペットの扱いについてまだ気になるのでもう少し書いておく。
 ペットが人間の生活圏の中でなければ生きていけないとしても*1、ペットの扱いがまったくの「自由」であっていいということはないと思う。
 家畜であれば上質の肉やらミルクやら耐病性やらの「実用的な」問題としてそれらを扱うということがあると思うが、ペットというのはそういう「実用的な」ところからは離れた場所に存在している。
 僕はアニメ「ドラえもん」の中でスネ夫が血統書つきの猫を自慢していたせいか、血統書つきのペットというものに対して昔から大きな嫌悪感情を持っているのだが、ペットの血統書というのはいったい何の意味があるのだろうか。あるいは僕が無知なだけでペットの血統書というのはそれなりの合理的な理由があって価値があるのかもしれないが、どうもそうではなくてそこにはなにか人間社会において「血筋」をことさら重要視する下劣な感情と似たものがあるような気がする。
 それから最近はやっているらしい*2豆芝も僕はちょっとおぞましいものを感じる。小さい方が飼いやすいという「実用性」もあるだろうことは否定しないが、そこで求められているのはどちらかというと愛玩物としての<かわいさ>ではないだろうか。というと豆芝に限らず多くのペットが<かわいさ>をウリにしているわけで、やっぱりそういう<かわいい>ものを求めるということが僕の中でどうにも引っかかるようだ。
 つまり血統書にしろ<かわいさ>にしろ、そこにはペットを<モノ>化する視線が存在しているといえる。そもそも「ペット」ということばの意味は「愛玩動物」だったりするわけで、もともとペットというのは<モノ>として扱われる性質が強いのだとも言えるかもしれない。
「いやいや、自分はペットを大切にしている」という方にちょっと考えてもらいたいのだが、ペットを大切にするのはそれはペットが<かわいい>からではないだろうか。<かわいい>から愛する、大切にする、そうではないだろうか。もしそうだと仮定するならの話だが、それはかわいくなければ愛せない、大切にできない、ということの裏返しなのではないか。
 テディベアのぬいぐるみと一匹のペットを比べたとき、そこに注がれる視線にほとんど差がない、という状況を僕は想定しているが、果たして現状はいかなるものか。アイフルのCMに出てたくぅちゃんがはやったとかいう話もいま思い出したがどうもあながち間違ってはいないんじゃないかと思う。もちろんそれとは別のもっとストイックな(?)ペットとの関係を持たれている方がおられることを否定するわけではないが、ある程度まとまった数の過剰に<モノ>的なペットへの視線というのはあるんじゃないだろうか。
 で、この話がどう発展するのかというと、先日それなりのブックマークがついた『「子供を守る」と「子供が怖い」は同じ』*3に繋がるわけである。上述したペットへの視線というのは実は<子供>に対しての視線と同種のものなのではないだろうか。これは思いつきだが血統書なんかは学歴と置き換えられるかもしれん。
 大塚英志によれば、<子供>への<かわいい><モノ>としての視線は、<子供>の社会化、つまり大人になることへの嫌悪が根底にあるとされる*4。この大人になること、というのがまた説明するのが難しいが、まあ苅谷剛彦編著『いまこの国で大人になるということ』でも読めば何か参考になるかもしれない。ちなみに僕は未読だけど近いうちに読むつもり。

*1:これについては確信が持てません。またそうなるようにしたのも人間だ、という話はメインの話題にはすえません。

*2:もうブームは過ぎたのか? 最近多いなこれ。流行には疎いんだよ。

*3:http://d.hatena.ne.jp/mushimori/20060824#1156423986

*4:『子供流離譚』では紡木たくホットロード』にお大人になるヒントが書かれていると書いてある。