「死の実感」ということについて

 id:rnaさんの記事(http://d.hatena.ne.jp/rna/20060908)を読んで思ったことを書きます。

 そもそも「死の実感」とは何か、という話から始めないとよくわからないような気もします。といっても僕自身よくわかりません。死を実感するっていったいどういうことなのか。

そもそも死骸やら他人の死やらをいっぱい見ると「死の実感」が得られるの? むしろ、(おそらく生得的に備わっている)根拠のない死そのものへの嫌悪感や恐怖感が麻痺しちゃうだけじゃないの?

 死骸や他人の死というのは異性の裸と同じで、ある種のポルノグラフィであるということもまず考慮に入れなければならない。死にたくさん触れたからといってそれが「死の実感」であるとは到底思えないが、坂東さんが言いたかったことは恐らくただ死体を見ればいいということではあるまい。だからちょっとrnaさんの読みは誤読ではないかという気もするのだが、坂東さんの言い方ではそう読めても仕方がない部分もあるし、僕も正確なところは分からない。
 また、(根拠がないかどうかはともかく)僕たちに備わっている死への嫌悪感や恐怖感が死をたくさん見ることで麻痺するというのは、単純にはいえないと思う。
 メディアの影響論とも関連するが、これは受容文脈によって個々の受け止め方が違うのではないかと思う。ある「死」を前にしたときに、その「死」がどういう状況下でのものなのか、かつそれをどういう文脈で「理解」するのか、ということが「死の実感」の個人差として現れるように思う。
 

誰かを殺せるってことは既にその誰かの生に共感できないってことで、その状況で「死の実感」とやらが何かの歯止めになるとも思えないし。

いや、「死の実感」というのはそうではなくて、他人に死なれた時の喪失感*1のことなんだ、というのなら、見知らぬ動物やら赤の他人の死では実感しようがないし、共感だって死んだ人にではなく誰かに死なれて悲しむ人に対して、だろう。

 青少年の殺人が「死の実感」と関係あるのかどうかということについてはなんとも言えないが、根拠もないし、直感的には関係ないと思う。ただ、「誰かを殺せるってことは既にその誰かの生に共感できないってこと」という部分には引っかかるものを感じる。むしろ「共感」などできなくても普通人は人を殺せないものであると思う。特に恨みも憎しみもなく人を殺せるというのは社会的な価値規範やシステムが作用しているのであって、他人というものが純粋な手段となっているのではないだろうか。

 喪失感や共感というものが「死の実感」であるという風には僕には思われない。強いて言えば他人と同じように自分もまた死ぬのだ、という感覚が「死の実感」と呼ばれるような「死」の「理解」の仕方ではないかと思う。

 ちょっと話がまとまらないが、坂東さんの提起したかったことというのは「死の実感」が喪失しているとうことではなくて、むしろ「死」を隠蔽しようとする社会の意志なのではないかという気がする。それを説明するために根拠薄弱な少年犯罪や動物の死骸の話、生の実感が失われる、というようなことをくっつけてしまったので分かりにくくなってしまったのではないだろうか。