物語/少年/少女

 最近の僕の主な関心事は「人が語る」ということで、〈私〉が物語を通して生み出されるということ、物語が共有される、といったようなことがぐるぐると頭をめぐっている。
 例えば、いまGyaoで放送している『ライ麦畑を探して』においては少年がサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の語りの中に閉塞している様が描かれる。そんな彼に対して少女が言う、「あなたは自分で何かを創りだせないの?」。*1
 また少年は死んだ兄を語りの中にうまく内包することができず、まるで兄が生きているかのように振舞い、そうした閉塞に対して少女は苛立ち、少年はそんな少女を捨ててサリンジャーに会いに行く。
ライ麦畑』を読んでいた複数の殺人犯については僕は大塚英志の小説の中で初めて知ったのだが、この映画の中で少年は、銃でサリンジャーを撃ち殺そうとする。物語への共感はいつの間にか彼がその物語を通して殺人による自己実現を成し遂げることへとその筋書きを変化させていた。
 しかしそこに少女が介在する。少年はサリンジャーを殺さない。彼は少女と父の元へ帰る。やがて少女も死ぬが、兄とともに少年の語りの中に内包される。作中でサリンジャーの書いた結末の続きを考える課題を出した教師のことば、「物語から離れることが重要だ」。
 物語が語られる、人と人との間に。
 ここには多くの問いが生まれる。例えば少年と少女の物語の違いなどは興味深い。
 しかしいま最も真剣に考えなくてはいけないのは、サリンジャーを殺さない少年の物語をいかに語るのか、ということであるようにも思う。いずれにせよ、僕はその問題系の外側の人間ではないか、というつぶやきはあるのだが。

ライ麦畑をさがして [DVD]

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*1:このシーンを見たときに思い出したのがid:chazukeさんの言う「たまねぎ男」ですよ!