浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会』パラパラ雑感

犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書)

犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書)

 図書館で予約しておいたのが届いたので読み始める。

近年、少年非行の現場で問題となっているのは、なかなか大人になれない非行少年だ。

強調部引用者、p.46

「大人になれない」という表現にはちょっと引っかかるものがあるが、浜井は社会の受け皿(就職口)が減少し、「(就職して)大人になれ」という社会的な圧力が機能しなくなったことを問題視している。ここでは「大人になる」ということが「就職する」こととして位置づけられている。
 ところでこれとよく似た指摘を大塚英志も参照している。

 戦後一貫してティーンエイジャーの殺人犯は減少していて、ついでにいうなら二十代前半の殺人率(殺人を犯す率)も激減しているというのが少年犯罪をめぐる真実であり、しかも、これは二十代前半に殺人のピークがくる欧米と比較して際立った特徴でもあるという。とにかく、この国の若者は人を殺さなくなってきているのである。(中略)
 この数字から、戦後の日本の社会システムは何らかの形で少年の殺人を抑止する作用をもっていた、と考えるのがたぶん最も妥当な結論である。例えば先の統計を発表した研究者は、若者が殺人を犯すことで失うもののリスクの大きさを「抑止のシステム」として指摘している。つまり、高度成長と横並びの平等で、そこそこの安定がより若い世代に保証されてきた以上、若者は殺人をあえて犯しそこから逸脱するリスクを冒さない、という仮説だ。身も蓋もない仮説だが、しかし説得力はある。
 殺人にいたる動機の一つに金銭目的があるとすれば、若者層の経済的安定を保証するシステムは、その点からも犯罪の因子を一つ消去しえたことになる。

自己実現としての殺人」『戦後民主主義リハビリテーション』(角川文庫)p.82

「就職口」と「経済的安定」ということばの違いはあるが、両者はほとんど同じことを述べている。

 さて、次。浜井はさりげなく重要なことを述べている。

 ところで、これはあまり知られていないことだが、少年非行の多くは、メディア、特にテレビ報道に触発されたものが少なくない。というのも、少年非行や逸脱行動の直接的な動機の一つが「目立ちたいから」という点にあるからである。 
 暴走族は、(中略)彼らの表面的な意識としては、暴走族集団が居心地が良く、格好良くて、目立つことができると思っているから加わって走っているのである。
 したがって、暴走族による「富士山の初日の出暴走」にしろ、あるいは一部の若者が暴れている「荒れる成人式」にしろ、テレビカメラが控えていて全国に報道されるから、わざわざ集まるのであり、メディアがいっせいに無視すれば次第に人が集まらなくなるだろう。
 殺人などの特殊な少年犯罪にも、全く同じことが言える。一九九七年に発生した神戸の連続児童殺傷事件以降に起きた重大少年事件の加害少年の多くは、神戸事件の加害者を意識し、矯正施設などで自分と「少年Å」を比較するコメントをしていることが多い。また、事件直後には、事件に影響を受け動物虐待などを起こして施設に収容された非行少年も散見された。
 思春期で精神的に不安定になっている少年の場合、メディアの報道に触発されて犯行に及ぶものも少なくない。「コピーキャット犯罪」と言われているもので、少年による殺人や放火事件、犯罪行為ではないがいじめなどがある時期続けざまに発生するのは、メディアによる同時案発掘の効果と、報道に触発された場合と、二つの可能性のどちらかであることが多いのだ。

 ここでの記述にはほとんど賛成だが気になる点もある。
①「目立ちたいから」という動機は「自己実現」=「社会化衝動」と置き換えることが可能ではないだろうか。そうすると大塚英志の議論と接近する。逸脱下位文化集団を一つの「社会」と考えるならば、暴走行為で目立つこと=彼らの「社会」における「社会化」と見ることができる。我々の眼から見るならそれは「誤った社会化」であり、「子どもの現実逃避」である。
②メディアの報道による触発というのは、言い換えるならばメディアでの報道状況が、殺人を一種の社会的認知あるいは承認に値する行為として判断させ、社会化の手段として殺人があるかのような錯覚を思春期の少年が抱く、ということだ、ということを言っているように思える。
③神戸の事件はその後の「コピーキャット」たちと区別されるものなのだろうか。確かに酒鬼薔薇の事件は後続の事件の「発端」ではあったが、大塚が検証したように酒鬼薔薇は明らかに「大人になるための儀式」として事件を起こしており、「目立ちたい」という動機を「社会的認知」として置きなおせば酒鬼薔薇と後続の事件の間の区別はできないと思う。

 ところで大塚、あるいは土井隆義の議論においては「少年犯罪の凶悪化・低年齢化」が否定された上で、酒鬼薔薇および後続の同タイプの少年犯罪(大塚は時に永山則夫宮崎勤をこれに含める)は成熟した近代社会に特徴的なものであると見なされており、浜井や芹沢の議論と軋轢を持っているかもしれない。
 土井の議論においては、再帰的近代における再帰的自己論の文脈から酒鬼薔薇タイプの事件が論じられ、リストカットやネット心中などの問題もあわせて若者一般に敷衍した議論が展開されている(『〈非行少年〉の消滅』)。土井の議論は一見独特なものに思えるが、例えば『検証・若者の変貌』で実証的な若者研究に定評を得た浅野智彦が指摘する「若者の自己の多元化」や少年犯罪について「ある種の変質はしている」というコメントは土井の議論を裏づけるのではないだろうか。また鈴木謙介が『カーニヴァル化する社会』の中で、「自己への嗜癖」というキーワードを使っていて、「自己への嗜癖」がなぜ集団の祭りになるのか、リースマンの言う「他人志向型」とどこが違うのか、という点が分かりにくいのだが、これも土井の議論を踏まえた上で読むとわかりやすくなる。つまり、「自己への嗜癖」によって追い求められる自己像というものは実は手に入らない。なぜなら自己は社会的に形成されるものなので社会的な位置づけをしないで自分の内面ばかり掘り返しても自己は見つからず、社会的に位置づけようとしても社会の価値観や構造が多元的で流動化しているのでそれも不可能となっている。それでも明確な自己を手に入れたいという欲求は、その場その場で周囲の承認を得られるような私を(データベースを参照して)作り上げ、「これが本当の私」という無根拠な断定をする振る舞いを生み出す。斎藤環香山リカ東浩紀、野田正彰といった人々がキーワードとして使う「解離」という用語もそれを別の側面から言い換えたものである。土井の議論では社会的背景として他のものもあげられているが今は省略する。
 
 しかし、土井の議論ではまだ考えておきたいことがある。
 土井は昨今の「強盗」の増加については浜井と同じく批判的な指摘を行なっているが、その一方でかつての逸脱下位文化集団の非行が減少した代わりに、異なるタイプの非行が増えており「少年犯罪の実質的な稚拙化」があるという指摘を行なっている。このタイプの犯罪は幼児的な衝動性の発露であり、言語的な動機の説明が困難であるという。土井はこうしたタイプの非行を宮台真司の「脱社会的犯罪」と同じものだと捉えている。こうした非行の変質は浜井が言うのとは別の意味で「大人になれない」と言えると思うが、雇用問題の文脈とは別に自己形成の文脈においてなんらかの変化・問題がやはりあるのではないかと思う。別の報告を待ちたいところである。

 そろそろ疲れてきたので残りはまた暇なときに。

非行少年の消滅―個性神話と少年犯罪

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