樹村みのりと成熟

カッコーの娘たち (ソノラマコミック文庫)

カッコーの娘たち (ソノラマコミック文庫)

 樹村みのりの短編『晴れの日・雨の日・曇りの日』は、小学6年生の少女西村さとこが、夏休みに同じ学年の中川尚美と知り合って親しくなり、その年の冬休みにさとこが引っ越すことで関係が終わるというプロットの物語である。
 このようなプロットは、前回分析した魚喃キリコの『blue』と同一のものである。すなわち、二人の少女がある期間親密な関係を結び、その関係が終わるというプロセスと、少女の成長が重なっているというプロットである。

通過儀礼発動の個人史的経緯

 しかし、この作品はある点で『blue』とは幾分異なっている。『blue』では、少女たちの年齢設定は高校3年生であり、進路選択の圧力にさらされている。それに対して、さとこは小学6年生で成熟への圧力があるようには(少なくとも作品上)見えないし、現実への不適応が特別あるわけでもない。ゆえになぜ通過儀礼的な物語をさとこが発動するのかという原因が一見不分明である。その理由についてはさしあたって、さとこの繊細な感性による、あるいは、その繊細な感性が尚美と出会ったことによるとしておきたい。ただ、さとこがその感性を形成した経緯について、本作は若干触れてはいる。

みんなの遊びを/遊べないころは/いつも自分だけ/仲間はずれの/ように/思えました

それから/一人だけで/いられる場所を/見つけました

暗い納屋/押入れの中/さんざしの木の影/黒い土の/ひんやりとした/場所

そうしている/うちに/大きく/なっていって

もしかして/みんなの中に/はいっても/あんがい/じょうずに/遊べるかも/しれない/――なんても/思える……

あんがい/たやすい
遠くで/見ているより/ずっと/楽しい!

それから/遊びの中で
奇妙な/ちがった/独特な/一人ひとりを/見つけるの/でした(強調部引用者)

 つまりこれは、かつて他の人がやるようには遊べなかった自分に似通った存在としての他者を見出しているということである。だから、さとこの繊細な感性というものを言い換えるなら、内省的な適用の感性ということになる。しかし後述するが、彼女の感性はプロットの進行に伴って変貌する。いまは、彼女が通過儀礼的物語を発動させたきっかけとしてのみ、この感性を扱う。さて、そのような感性を持った彼女は、普段なら見落としてしまっていたとある空き地に、尚美がいるところを目撃する。このことは尚美がそこにいたから、普段なら気づかない空き地があることに気づいたのだ、と作中で回想される。ここでの空き地はただの空き地ではなく、さとこの過去の経験を通して独特の意味づけがなされた空間である。そこはただの空き地ではなく、「尚美が存在する空き地」という固有の空間としてたち現われてくる。かつての自分が求めた、「一人だけでいられる場所」と同質の空間として、さとこは「尚美が存在する空き地」を見出したのだといえる。このような経過によって、さとこの通過儀礼は発動したのだと考えられる。

儀礼を支える場としての空間X

 ここで注目しておきたいのは、「空き地」に類する空間の、儀礼における普遍性である。前回の『blue』にしても、「学校」という空間が主要な舞台であることは重要である。仮に家庭―空間X―社会という空間の配置図式を設定するなら、通過儀礼においては家庭でも社会でもない、日常から切り離された空間Xが儀礼を行う場所として必要とされる。「空き地」や「学校」はそのような空間Xとしての位置づけを持った構造内の変換要素である。この空間Xにおいては、そこに存在する人物の所属の曖昧化、価値規範の曖昧化、性別や身分などの諸属性の転換・撹乱、セックス・暴力・死などの(表象の)前景化などが複数項目が相関しあって起こる場合が多い。しかしこれらのすべてが当てはまるわけではない。今後、仮にこのような空間Xを移行空間と呼ぶことにしよう。本作では、物語の終盤、さとこが引っ越すことが決まった後に、この空き地は駐車場にされるために工事の手が入り、もはや彼女たちの居場所ではなくなってしまう。儀礼の終了にあわせて、移行空間は捨て去られねばならない。

スティグマ的な、あるいは対照的な対象としての移行対象

『blue』においても、本作においても、主人公は2人の少女であるが、しかしより明確に主人公として登場するのは桐島であり、さとこの方である。彼女たち「陽」の主人公に対して、遠藤や尚美は「陰」の存在として登場する。この差異について説明するのはなかなか難しい。「陽」の主人公の側は基本的に現実に対して比較的適応的な存在であり、世界との軋轢あるいはずれとでも呼ぶべきものを具体的に持っているというよりは感じており、それに対して「陰」の側の少女は、世界との軋轢やずれを具体的に持っている、とひとまずは説明できるかもしれない。
 具体的に見てみよう。『blue』に登場する桐島は、勉強のよくできる、「普通の」、しかしどこか周りとのずれを感じている少女である。このずれは具体的には級友との以下のような会話によって確認される。

カヤコ/今度の明南との/飲み会いくー?

えー…/わかんない/今あんまり/お金ないし/渡辺は?

え――/いっしょに行こうよ――

 女子校の女の子が男の子との飲み会をしようよと語る、「普通の」会話、「普通の」日常の流れの中の一こま。けれどもその流れを空気のように当たり前に受け止められない、そんなずれが感覚される。「行く行くー!」ではなく、「えー…/わかんない」と返答してしまう。
 これに対して桐島と関係を結ぶ遠藤は、前の学年のときに妻子ある男と関係し、中絶、停学になったという過去を持ち、この経歴によって他の生徒からは話しにくい、敬遠された存在となっている(ただし、他の生徒は停学になったということしか知らない)。つまりこういうことかもしれない。「陽」の主人公は自分ではずれを感じているが、周囲は彼女をずれた存在とはみなしていない。しかし、「陰」の少女の方は周囲からずれた存在としてスティグマ保持者として位置づけられる存在となっている。
『晴れの日〜』に登場するさとこもまた、周囲からはずれた存在とはみなされない。しかし尚美と知り合ったとき、尚美の足が不自由であることに気づき、さとこは立ちすくむ。すなわち、いわば自発的に自分の位置に対するずれを認知するのである。
『晴れの日』においては、以上述べたような2人の間の差異は、『blue』よりもより誇張された形で表現されている。尚美は足が不自由なのだが、それに対してさとこは「走ったり/とびはねたり/している/元気な女の子」と表現される。私は以前から、2人の少女の関係を通した通過儀礼的な物語はこのような両者の性質の対照性あるいは二項対立が重要な要素であると考えている。「陰」の少女は「陽」の少女にとっての移行対象と考えられ、自己像の投影対象であり鏡像なのだが、しかしあくまで違う性質を持った存在としての投影対象が必要とされるように思われる。『blue』の桐島は、すでに親友と呼べるような渡辺という友人がいるにもかかわらず、その同質性を嫌ってあえて異質な遠藤に接近した。『晴れの日〜』のさとこも、尚美と他の友人たちとの軋轢が生じたとき、他の友人たちでなく、異質な存在として位置づけられている尚美との関係を選ぶ。彼女たちの通過儀礼はそのような相手の異質性を受け止めていくことを通して進行するのである*1

人身御供論 通過儀礼としての殺人 (角川文庫)

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ふたりはプリキュア 1 [DVD]

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*1:この論点については、やはりアニメ『ふたりはプリキュア』を想起しないわけにはいかない。私はほとんど見ていないが、偶然にも視聴した回において、2人の性格の差異が強調され、自分たちは仲良くなれないのかと悩む描写がなされていた。

魚喃キリコと成熟

Blue (Feelコミックス)

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 魚喃キリコの『blue』は2人の少女、桐島と遠藤が主人公のまんがである。同性愛的な青春の一コマが描かれ、卒業と同時に桐島が上京、遠藤が地元に残り、2人の関係が終わることで結末を迎える。
 このような、2人の少女がある期間親密な関係を持ち、その関係が終わるというプロットと、少女の成熟が相関しているというタイプの物語群が存在する。このようなタイプの物語は通過儀礼のバリエーションの一つとひとまずは言うことができるだろう。2人の関係が結ばれる前→親密な期間→関係の終わり、という形態は、文化人類学における通過儀礼の定説である分離→移行→再統合の状態変化に対応していると考えられる。*1
 ところでまた、このようなタイプの物語は、移行対象をめぐる物語とも言うことができる。つまり、2人の少女はお互いがお互いにとって「ライナスの毛布」であって、つらい現実に立ち向かうために必要とされる緩衝材的愛着物であるということである。だから、少女たちの関係は、しかるべき期間が経過した後、すみやかに終了しなければならない。その意味で、2人の少女の関係がいかに同性愛的に見えようとも、その関係が終わることを前提として物語が構成されている以上、現実の同性愛をめぐる真実といった観念からは距離を置いた分析が必要となる*2
 一つ重要な点を押さえておかなければならない。それは彼女たちが物語の開始時点で受験生であり、進路選択を迫られているという点である。高校という事実上義務教育化している教育課程を終えて、自分なりの成熟を達成しなければならない圧力にさらされている。もともと成熟は自分なりのものではなくて、周りが用意してくれるはずのものだったのだが、これは現代の物語だからそのようなシステムはうまく働いていない。そのシステムのほころびの露呈する特異点として、物語内の時期が設定されている。
 物語内で結ばれる2人の関係は、だからそのようなシステムの不全の象徴的発現として捉えられる。上述したように、この関係は形態上、終わることが運命付けられており、その関係の継続は悪しきものとして位置付けられる。どのような意味で悪しきものなのかというと、それは自己閉塞的であるという意味においてだと思われる。互いが互いの鏡像である関係は鏡像としての投影による自己の安定を得ることができるが、それは社会的な水準における位置づけを伴わないため、きわめて狭い範囲の特異的空間――学校とその周辺――でしか成立することができない。この特異な閉塞は決してよい結果をもたらさないだろうと予測されるのだが、その具体的な考察はまた機会を改めて行うことにしよう。
 
 

*1:しかし、そのように通過儀礼として捉えることができたとしても、なぜ、2人の少女なのか、という問題が残っている。これが男女であっても男同士でもよいのではないか、という疑問があるからである。これは難しいところだから、そのことは追々考えることにしよう。

*2:しかし、それは現実の同性愛にまったく適用不可能ということを意味しない。多様で固有の関係である現実の同性愛関係はノイズが多く抽象的な分析が難しいということに過ぎない。

おたく的なものと女性化願望

 森岡正博さんの『感じない男』には、「自分が少女の体に乗り移りたい」という願望が記されている。私は大学時代、(たぶん森岡さんの話を知らなかった時だとと思うが)研究室の人間に、「自分には女性になりたいという願望があるんじゃないかと思う。そして素敵な男性に抱きしめてもらいたいと思っているような気がする」ということを漏らしていた。森岡さんの本を読んでやっぱりそうなんだ、と思い、同時に自分の中にある母親との葛藤までがその願望に関与している可能性まで明瞭に指摘されてしまった。
 ところで、以前ネット上の考察の中で、おたくというのは「いつか馬車に乗った王女様が自分を迎えに来てくれる」という願望を持った存在だというのがあった。これはいわゆる女性のシンデレラ願望「いつか白馬に乗った王子様が私を迎えにきてくれる」の逆バージョンであるが、これは精神的に女性化された男性だということもできるかもしれない。
 斎藤環さんが本にもした「戦闘美少女」について考えると、こちらは局所的に男性化された女性である。局所的に、というのは、戦闘能力以外の点について、戦闘美少女はいわゆる「少女らしい」可憐さとかいじらしさとかを失ってはならないからである。
 そして、女性化願望を持つ男性と、戦闘美少女との関係というのは、相補的な一体物の関係にあるのではないかと思う。戦闘美少女が戦闘をする=男性であるのはそれが男性が乗り移る対象として想定されているからだ。主体的自立を得るためには自立を証明するための戦闘ができなければならない。そして戦闘美少女に比して、あまりにもさえない、ぱっとしない男性主人公が少女を肯定するのは、女の子をはべらせたいのではなく、戦闘美少女として立派に戦った自分自身を自分自身によって肯定することなのだと思う*1 *2
 ここら辺で私は宮崎駿のことを考える。つまり彼と母親との葛藤のことを、である。彼は、自分を母親に認めてほしいと思っているように見える。では、彼はマザコンなのだろうか。どうも違うように思う。というのは、森岡さんの図式で考えると、宮崎は、そして私たちは、幼児として母親にすがりたいのではない。むしろ母から決別し、母から自立したいと思っている。それは、自立した存在としての自分を母に認めてほしい、ということになろうか。しかしそうした欲求もまた、マザコンなのではないか、という疑問も私の中にはあるし、逆に母なるものを否定しようとすることが不健全なようにも感じることがある。それに、母から認められたいか、母から完全に決別して自足したいかということには個人差があるかもしれない。

*1:だからセカイ系で、キミとボクしかいないというのは間違いで、キミはボクの鏡像なのであって、相補的同一物だと考えなければならない。

*2:ちなみにセカイ系で社会が描かれないのはもはや社会の中における戦いのリアリティがないからだろう。そこに成熟のモデルはないというところがたぶん重要だと思う。自分を肯定するために邪魔なファクターが社会の中には多いというのもあるかもしれない。

自由の境界線が勝手に決められているように感じたこと

 君が代伴奏拒否に対する処分に最高裁が合憲判断を下したことに関して、いくつかブログを見て特徴的だったテンプレな言い方についてちょっと書いておきます。
 そのテンプレというのは「自由は大切だが行き過ぎはよくない」というもの。細かい違いはありますがだいたいこういうことを言っているブログを複数見かけました。
 さて、なぜ彼らはこのような言説を述べるのでしょうか。いくつか考えられると思いますが、一つは国旗国歌というものに対する態度というものが、彼らの中では決まりきった特定のイメージで描かれているということだと思います。恐らく彼らのような言説を述べるほとんどの人たちは国旗国歌というものについての明確な思想なり考えなりは持っていません。国旗国歌に対する態度はいわば日常の「風景」あるいは「常識」のようなものとしてある(あった)のだと思われます。そこに「伴奏拒否」というような事件が起こった場合、それは彼らにとっての「安定した自己」を支える「安定した日常」また「安定した常識」といったものを揺るがすようなこととして感じられるのだと思います。彼らにとって、「国歌(あるいは国家に置き換えてもよいと思いますが)に対する態度が自分たちとは違う存在」を認めることは、大げさに言えば彼らの均質的な世界観に変革をもたらすことに他なりません。そうした事態に対して不適応を起こしているのは、彼らが明確な思想や考えの下に発言しているわけではないこととから考えて、そのような世界観の変革を要請される機会が少なかったのであろうことが想像されます。従って彼らの発言はある種の防衛機制としての反射的なものだと捉えることができるでしょう。ですから「自由の行き過ぎはよくない」というのはステロタイプな保守的発言のインプリンティングが出て来たに過ぎず(もちろん僕のような一般庶民はみなできあいのことばを自分のことばとして語ってしまうことが多いので人のことはあまり言えませんが)、客観的な現象としてみると彼らは単に自己を防衛しているだけだということができると思います。
 ここにはありがちな話ですがやはり日本社会のコミュニケーションのあり方であるとか、教育の問題が絡んでくると思います。つまり「暗黙の了解」におとなしく収まってくれない他者との関係性をいかに作っていくか、ということの訓練が足りていないわけです。だからなんとなく雰囲気で出来上がっている「常識」の範疇が「自由」でそれ以外は「行き過ぎ」になってしまう。判断の基準が主に多数派を代弁するだけのような気ままで曖昧なものになってしまっているわけです。*1
 思ったより長くなりましたがとりあえずここまでにします。他に教員が「公務員」である点などありますが、いずれ触れるかもしれません。恐らく過去にも出ている論点だと思うのでそれを発掘した方が自分で考えるより早い気がします。

*1:別の言い方をすると、自己を動揺から守るためのできの悪い物語を急ごしらえした、ということです。

「子どもポスト」についての参照事項

 大塚英志によると、日本では昔は捨て子は結構たくさん行なわれていて、制度上捨て子が難しくなってきたので母子心中が増えた、ということだったように記憶している。
 それと、僕は一年生のときの教養課程でモンゴルの歴史と文化を紹介する講義を取ったのだけれども、モンゴルは捨て子、というか実親が育てられない子を別の親が引き取るのは普通のことだ、という風に教えられた。実際に引き取られた子がいる一家の生活しているビデオも見せられたりした。
 それで、育てられなければ引き取る、というのが「普通」のことであるのはなかなかいいんじゃないかといま僕は思っておるのですな。というわけで、「子どもポスト」の導入には賛同する。

ドッペルゲンガーの回に関する(恐らくは)修正(しなければならないだろうゆえの準備)に向けたメモ

次回予告より。

異界に似た、永遠のまどろみ。
温かく優しく、すべてを包み込む。
だが、二度とは戻ってこない、甘美な場所。
それは、母のひざの上。

 アイデンティティ・クライシス。「未来のことが決まってしまっていること」への違和感。

 それと、これは関係ないが、『妖奇士』はとてもすっきりしていて*1、「練習問題」としてちょうどいい。これからの比較応用にも役立ちそう。

*1:なんというか、参照しているパターンが見えるというか