ソーシャルダーウィニズムの影

 id:kaikai00さんの記事子どもの暴力は表象にすぎない - 今日行く審議会@はてなに書かれていることについて考えてみたい。僕も朝日の記事を読んだときにkaikaiooさんと同様の違和感を感じていたのだが、問題としたいのは朝日の社説のような発想の根っこは何かということである。
 僕は朝日の社説のような発想の根っこはソーシャルダーウィニズムにあると考える。ソーシャルダーウィニズムとは優勝劣敗、適者生存の原理によって理想的な社会状態に至るとする目的論的自然観に基づいた社会理論である。ダーウィンと同時代人であったハーバート・スペンサーが祖であるとされ、現代においては新自由主義的な思想潮流がこのソーシャルダーウィニズムの潮流を受け継いでいるといってよい。ウィキペディアの解説ではスペンサー自身は自由主義的な思想を持っていたとなっているが、僕はスペンサーの思想についてそこまで詳しいことを知っているわけではない。しかしその後のソーシャルダーウィニズムが優勝劣敗、適者生存の論理を掲げる形で普及していったことはどうやら事実のようである。
 一般にソーシャルダーウィニズム優生学との関連において語られることが多く、例えば米本昌平他『優生学と人間社会』の中でも、優生学思想の受容の前提としてスペンサーの著作のアメリカでの翻訳があったことが書かれている。
 しかし、ソーシャルダーウィニズムが影響を与えたのは優生学だけはない。教育においてもその影響力は大きなものがあった。手元に本がないので引用はできないが、例えばジョン・デューイ『民主主義と教育』の中にもソーシャルダーウィニズム派に関する批判的な記述が見られる。
 さて、それではソーシャルダーウィニズムはいったい何が問題なのだろうか。ソーシャルダーウィニズムの特徴は上述したように優勝劣敗、適者生存の論理を掲げることにある。つまり、「より優れた個人・集団・社会が競争を勝ち抜き,持続・繁栄していくという議論」である。*1このような議論は、社会問題というものが、社会の構造や制度といったものに起因するという発想を持たない。問題はすべて個人や家庭に元凶があるとされるのである。
 朝日の社説を見ると、まさにこのソーシャルダーウィニズム的な思考にはまり込んでいることがわかる。改めてkaikai00さんの指摘を引用する。

この社説では、「子どもが不満をため込み、それを抑えきれないというのは、その家庭に問題があると考えざるをえない。親が自分の気持ちをきちんとコントロールできないから、子どもが暴発してしまうのではないか。」と述べている。こう述べながら、親がなぜ自分の気持ちをコントロールできないのかという問題については全く触れない。また、同様に「最近は朝食をとらせないまま、子どもを学校へ送り出す家庭も少なくない。」と述べておいて、そういう家庭がなぜ増えているのかは問題にしていない。この社説では、子どもの暴力の要因が家庭にあると決めつけている。

 また、

 子どもが置かれた環境は、親や祖父母の時代とはすっかり変わってしまった。

 ゲーム機が広がり、外で遊ばなくなった。体をぶつけあうような遊びもやらない。学校でも塾でも、周りは同じ年齢の子どもばかりだ。

 そうしたさまざまな変化も、子どもにストレスを加え、自制する力を弱めてきたのではないか。


というように述べている。そこに挙げられているような変化がなぜ「子どもにストレスを加え、自制する力を弱め」ることになるのか。それには一切触れない。

 家庭の問題そのものを社会的に位置づけるという発想のなさをうまくついており、ソーシャルダーウィニズム的な思考として見ることができる。また社会の変化についても、これでは外で遊ばせればいいとか、違う年齢の子供の集団生活などといった対処策が導き出されてしまうだろう。ここでもやはり社会構造や制度の変革という視点は希薄ないしは全くないといえる。しかも「外で遊ばない」とか「周りは同じ年齢の」とかいった無根拠な記述は、一種の「宗教的」ソーシャルダーウィニズムであるともいえるかもしれない。

*1:社会学の理論』(有斐閣ブックス)P.144